母はなぜ、養父に性的虐待を受ける娘の敵にまわった? 『ファザーファッカー』から25年、明かされるもう一つの真実

文芸・カルチャー

2018/12/16

『ダンシング・マザー』
内田春菊/文藝春秋)

今はあんた、子どもだからわからないかも知れないけれど、あたしはあんたのためを思って言っているのよ。それだけはしちゃだめ。それをしたらおしまいよ。(P197より)

 養父から性的虐待を受けているのを知りながら見過ごし続けてきた母は、娘を愛していないわけじゃないのかもしれないと思ったのは、このセリフがあったからだ。『ファザーファッカー』(内田春菊/文藝春秋)で、殺意をたぎらせた娘・静子が包丁を握る場面である。自伝的小説である同書が世に放たれて25年、母・逸子の視点で描かれた『ダンシング・マザー』(文藝春秋)が刊行されたと聞いて、読まないわけにはいかなかった。あのとき、あの瞬間、逸子がなにを感じていたのか、どういうつもりだったのかをただ、知りたかった。

「たぶんこう思っていただろう、と推測するしかない」「母が読んだら“違う!”と怒るかもしれませんが、本書はフィクションですから(笑)」と内田さん自身が文春オンラインのインタビューで語っているとおり、本作はあくまで小説で、事実ではない。「終盤の作業は、随所に吹き出してくる私の“怒り”、自分寄りになっている部分を抑制し、削っていくことでした」とも語っているが、己の感情を抑制して、毒母になりきることは内田さんにとって想像を絶する苦しみだっただろう。だが、静子が徹底して逸子にとって「扱いにくい子」であり「娘であると同時にライバルである女」であり「不気味な他者」であり続けるからこそ、本書は「毒母降臨」を描いた小説として、圧倒的な面白さをそなえているのである。

 逸子は、賢い女だった。ホステスだけど読書が好きで、勤勉で夫に尽くす誠意もあった。だが男を見る目がない……というよりも、問題の解決をいつも先送りにし、波風が立たないことを最優先にし続けたせいで、男をつけあがらせたのだと思う。そして何より娘より自分が幸せになることが大事だったから、静子のことも守れなかった。守らなかった、と書かないのは彼女に守ろうとする意志はあったからだ。そのすべてが、静子にとってなんの意味を成さないどころか、さらなる絶望に叩き落とす結果となっていっただけで。

 だが彼女がそんなふうになったのは、女だからというだけで見下され、虐げられてきた社会の風潮のせいでもある。なまじ賢いだけに自尊心がいつまでたっても満たされず、だが「男なんてそういうもの」と諦めているから暴力をふるう夫たちに歯向かうことができない。もちろん、女としての欲もあっただろう。自尊と自己卑下が絡み合ってこじれた感情が常に彼女のなかに渦を巻いていた。その鬱憤をすべて、静子にぶつけていたのである。

 結婚って、なんだろうと思わずにいられない。逸子のような女が特別とは思えない。たぶんその時代、似たような境遇の女は巷に溢れていた。だとしたら、なんのために「家族」は存在していたのだろう。逸子をブタと呼び、暴力をふるい、静子を犯すことを隠そうともせず、あれほど敵意をむき出しにした静子を「妻にできる」と思って喜んでいる養父のおぞましさ。なぜそんなことがまかり通ったのだろうと思うと、この国が社会的に育んできた歪みに絶望するしかない。

 逸子も被害者なのだから許せ、ということでは決してない。事情が見えてきたからこそ増した怒りもある。だがラスト、もう二度と誰かの奴隷になりたくないという願望をあらわにしながらも、男に幸せにしてもらう希望を捨てきれず「あと少しの我慢」とこらえ続ける彼女の内側に、思いをはせずにはいられないのである。

文=立花もも