「自分が自分でなくなってしまう」恐怖と必死で戦っている人々――「もの忘れ外来」を舞台にした感動の医療小説

文芸・カルチャー

2019/1/3

『永善堂病院 もの忘れ外来』(佐野香織/ポプラ社)

 なぜ人は死や病、孤独や不安を恐れるのか。生きるうえで誰もが関わることでありながら、つい目をそらしたくなってしまうという人は少なくない。辛いことや苦しいことがあると、その出来事に向き合うことだけではなく、人と関わることや生きることそのものにすら身構えてしまったり、憶病になってしまったりすることもあるだろう。

『永善堂病院 もの忘れ外来』(佐野香織/ポプラ社)はガンが発覚し、彼氏も職も失って、祖父母が暮らす田舎で新たな生活を始めたひとりの女性を主人公にした物語だ。新しい土地でひょんなことから病院の看護助手として働くことになった主人公の女性・奈美が患者らと向き合い、さまざまな想いや事情を抱えたスタッフらと関わるなかで、葛藤しながらも成長していく姿を描いている。

 法人営業部で活躍し、そんな彼女の姿に憧れていたと告白を受け交際を始めた年下の彼氏との日々とは一転。仕事や恋人、両親と距離を置くようにして住み始めた新居地での生活は、記憶を失うことや、先に見える死と向き合わなければいけない患者を受け入れる“もの忘れ外来”を持った永善堂病院で働く毎日だった。

 病院を経営しているのは性格もバラバラな3人の兄弟医師。たまたま見かけた徘徊老人を送り届けた際に、永善堂病院の三男・誠にその場で勝手に看護助手としての採用を決められてしまったことが奈美の就職のきっかけとなる。

 三兄弟たちは会った当初から、奈美にだけ過剰なまでに横柄な態度を取ったり、妙に慣れ慣れしかったりする。読んでいると、そんな態度に違和感を覚えたりもするが、実は彼らの態度の背景には、それぞれに悩み苦しみ闘ってきた過去があり、物語を読み進めていくなかで、その秘密が明かされていく。そして、隠されていた過去は思いもよらないような事実であったりするのだけれど、実は私たち誰しもに起こり得るような出来事で、だからこそ、登場人物たちの姿に胸が締めつけられたり、イラついてしまったりしてしまうのだ。

 また、三兄弟だけではなく、ほかの登場人物たちも決してスマートとはいえない人ばかり。なかには、思わず眉をひそめてしまったりするような言動を見せる人もいる。しかし、それがまた人間味にあふれていてリアルに感じ、まるで自分の日常生活の一場面であるかのように物語のなかに吸い込まれてしまうのだ。

 さらに、もの忘れ外来を舞台にした本書では認知症に向き合う患者やその家族の苦悩も深く交錯していく。そもそも、もの忘れ外来とは“もの忘れ”が単なる老化による記憶低下なのか、病気が原因となる認知症の初期症状であるのかを診断してくれるところだ。認知症につながるもの忘れは高齢者だけに関わる症状と思っている人も少なくないが、若い人でも起こり得るもので、実際に昨今はもの忘れ外来を訪れる30~50代の人も増えているという。家族だけでなく、いつわが身となってもおかしくない話なのである。

 永善堂病院のもの忘れ外来を訪れる患者は家族との間に溝やわだかまりがあったり、生活保護を受けていたりとさまざまな事情を持つ。そして、患者や家族たちは、いつか記憶がなくなってしまうことへの恐怖や未知なる将来への不安を感じながら闘っていて、その思いはとても深く重い。

 奈美や、奈美を通して見る周囲のさまざまな人たちの姿からは、生きることとは何なのか、また、死との向き合い方や家族の大切さなど多くを考えさせられる。人との関わりや生きることに憶病になっている人には恐怖の正体を示し、それが実はそれほど恐れるべきものではないのかもしれないと思わせてくれる。そして、最後には、いろいろな苦悩があるなかでも前に向かって生きていけるようそっと背中を押してくれる、そんな物語だ。

 物語中には悲劇のオンパレードといえるほど辛く悲しいエピソードが数多く登場する。にもかかわらず、読んでいるとなぜか心が温かくなり、最後にはどこか爽快な気持ちになれるから不思議だ。また、そんななかでひそかに動いていく、じれったく優しい恋も見逃せない。

 第5回ポプラ社小説新人賞で奨励賞を受賞した佐野香織氏のデビュー作であり、認知症や死を縁遠いと思っている年代の人でも無理なく身近に“生”を考えさせてくれる希少な本書は、ぜひ読んでおきたい1冊なのである。

文=Chika Samon