「人間とはなにか」を名著から読み解いてわかったこと

暮らし

2019/1/13

『人間であること』(時実利彦/岩波書店)

 人間とはなにか? どのような存在なのか? どう生きていくべきか?

 これに近いような遠いような問いが、いつの時代も生まれる。誰が答えるでもなくみんなで考え、答えが出ないまま問いが過ぎ去り、また時代が変わると同じような問いが生まれる。科学技術がこれだけ発達した現代においても、「人間とはどのような存在か?」という疑問に対して、それぞれの分野から生み出された定説があっても“明確な答え”は存在しない。

 裏を返せば、人間は常に自身の存在について考えてきたのかもしれない。今までも。これからも。

『人間であること』(時実利彦/岩波書店)は、1970年に刊行された約50年前の書籍だ。本書の根本には、“人間”という問いがある。その問いに答えるためには、自らを突き動かし感情をわきたたせる“脳”を解き明かすことが必要だ。そこで著者は本書で脳の仕組みや働きについて解説しながら、人間特有の主立った行動について“著者の見解”を交えて述べている。

 約50年前の書籍なので情報として古い記述も散見されたが、同時に読んでいて思わずドキリとする内容が見受けられた。

 たとえば本書の第11章「学習すること」。人間や動物は「学習」によって様々なことを習得できる。たとえば「パブロフの犬」だ。犬にエサを与える前にベルを鳴らす。これを何度も繰り返すと、エサもないのにベルを聞いただけで唾液を分泌するようになる。犬がエサ欲しさに芸を覚えるのも同じことだ。これは「うまく」生きていこうとする受動的な学習にあたる。

 しかし人間は“考える”ことによって「よく」生きていこうとする動物だ。意欲的に新しい行動を身につけて、生活を、人間関係を、社会を、「よく」していくことができる。本章の最後の言葉を抜粋したい。

学習させられているのではなく、自分から学習しているのであって、ここに、「学習する機械」や動物との本質的な違いがある。そして、この学習は、いのちある限り続けねばらない。より「よく」生きていくために――。

 この問題提起が50年も前にすでに行われていたことに驚きを隠せない。そして現在の私たちは、著者が訴えることを実践できているだろうか? 今の社会は私たちにとって「よい」ものだろうか? 「よく」するためにどんなことができるだろうか?

 私たちは「人間である」ために考えなければならない。

 また、人間は非合理的な存在だ。私たちは「たくましく」生きていくために集団を築く。つまり社会ができあがる。しかしその中でそれぞれが「よく」生きようとするために、お互いが個を主張し、他を否定する。集団と個の対立が起きる。これは人間の宿命だ。

 しかし個を主張し続けると、今度は孤独が襲ってくる。その孤独を癒すために、個性をもった相手を求める。しかしそこでまた「よく」生きようとする個と個が対立する。

 さらに私たちは永遠に生きる「無限の生」に執着し、しかし一方で「有限の生」を受け入れようと葛藤する。その苦しみを癒そうと心の安らぎを求める。

 このように私たち人間は、矛盾に満ちた割り切ることのできない精神によって対立を繰り返し、しかしまたお互いを求め合い…どこまでも非合理的な存在だ。これが「人間である姿」だ。

 フランスの生理学者シャルル・リシェは、いみじくもこう表現した。

実は人間を、ホモ・スツルチッシムス(超愚人)とよびたいところだが、最上級の形容詞はやめて、ホモ・スツルツス(愚かな人)ぐらいで勘弁しておこう。

 人間に対する問いは、時代を超えていつも存在していた。様々な学者たちがそれぞれの見解を出すものの、いまだ答えが出ていない。その理由は、人間が繰り返す対立と葛藤の中でいまだ考え続けているからかもしれない。

 本書は、人間という存在を客観的に解き明かしながら、「人間とはなにか?」という答えのヒントを見いだせる。約50年前の書籍だが、その読みごたえと先見性には舌を巻く。まさしく名著だ。

 最後に、古代ギリシアの七賢人の一人・ソロンの格言を添えて終わりにしたい。

「汝自身を知れ」

 人間とはなにか? それは誰かが考えることではない。私たち一人ひとりが考えるべきことのはず。その繰り返しによって、きっと社会が「よく」なっていく。

文=いのうえゆきひろ