「90歳以上の安楽死解禁」はあり? 宗教学者が問う“いのちのけじめ論”

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2019/1/22

『ひとりの覚悟』(山折哲雄/ポプラ新書)

 日本では、安楽死は違法である。延命治療を選択しない、あるいは中断する消極的安楽死は可能とされているものの、自殺幇助や殺人の罪に問われかねないため、多くの医師はその道を選択したがらないという。

 実際、大切な人が病におかされたとき簡単には受け入れられないだろうし、自殺を公的に容認しかねないおそれがあるのもわかる。だが実際、「どんなに苦しくても死ねない」というのはひどく苦しいことなのではないか、選択肢の一つとして準備されていることは必ずしも悪いことではないのではないか……。

 医療技術が進歩した今だからこそ改めて考えねばならないこの問題に「90歳以上の安楽死解禁」を提唱するのが『ひとりの覚悟』(ポプラ新書)。宗教学者であり哲学者でもある山折哲雄氏による著書である。

 著者は「90歳を過ぎた人間が自らの死に方を選ぶことは当然の権利であり、義務でさえある」と主張する。釈迦の没年齢は80歳、親鸞は90歳。人生を100年と仮定すれば90歳は、最晩年の始まりである。87歳の著者がみずからの行く末を考え抜いたすえの言葉であるから、なおさら現実感をもつ。安楽死が認められない医療の現状、無宗教と勘違いされがちな日本人の死生観や無常観などを通じて著者はその理由を語っていくのだが、なかでもいちばん心を打たれたのは〈老人は救済すべき弱者ではない〉というくだりだった。

 かつて「老人は、過去の伝承や伝統的な価値観を語ることのできる老賢者であり、神や仏の化身として尊重される存在でした」と著者は言う。

 それがいつしか「老人は社会の役割を終わった人間であり、弱者、劣者、敗者とされ、究極的に社会と国家によって救済されなければならないお荷物的な存在とされています。近代の福祉思想が、老人をワキの人間、いわば第二級の人間に引きずり下ろし、老いゆく者や死にゆく者の主体性、シテとしての役割を認めようとしない、嘆かわしい風潮を生み出したのではないか」と。

 死にゆく者の主体性。その言葉は、重く響く。「死」は生の締めくくりであり、いかに生きたかの象徴でもある。最後まで病と闘い、抗いながら死んでいくことと同じくらい、先の見えた己の生涯にみずから幕引きすることもまた、尊重されるべき主体性の一つのような気はする。それをやみくもに禁じるのは、長く生きた者たちを軽んじる行為にも、もしかしたら繋がるのかもしれない。

 こんなふうに死にたい、と願うのは決して、後ろ向きなことばかりではない。釈迦の命日に自らの終焉を迎えた西行は、ある時期から精進と断食をくりかえして自分の死に方をひそかに調整していたのではないか、自然死とみえるように自分の死を完成させたのではないか、と著者は推察し、自分もそうありたいと願っている。納得のいく最期を迎えるためにその瞬間まで生きる。それはとても理想的な生き方のような気がする。

『ひとりの覚悟』とは、自分の人生をひとり背負う覚悟ということでもある。センシティブで、簡単には結論を出せない問題だからこそ、老いた者たちとともに考える時間を持つべきなのかもしれない。

文=立花もも