「ホームランを打てなくても生き方はある」スポーツから学ぶ人生の歩き方。カープファンの心を掴んだ傑作エッセイも収録

小説・エッセイ

公開日:2019/2/26

『遠きにありて』(西川美和/文藝春秋)

 エッセイは著者の感性や心情、価値観がダイレクトに込められている読み物だ。そんな数あるエッセイ本の中でも他の作品と一線を画しているのが、『遠きにありて』(西川美和/文藝春秋)だ。

 本作は、映画監督や小説家として活躍中の西川美和氏が雑誌『Number』(文藝春秋)に連載していたエッセイをまとめたもの。スポーツ観戦が唯一の趣味だという西川氏は、スポーツに励むアスリートたちの姿に人の生き様を重ね合わせた。

 西川氏は、日本アカデミー賞で優秀監督賞を受賞した経験もある超実力派。そんな彼女は2015年から2018年にわたる3年間、どんな想いを抱きながら日々を過ごし、映画と向き合い続けてきたのだろうか。本稿ではいくつかのエッセイを取り上げ、彼女の価値観や魅力をお伝えしていきたい。西川氏の想いを知れば、彼女の作品をより楽しむこともできるはずだ。

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■スポーツの中に人生を観る

 エッセイは何をテーマにするかが最大のカギとなるが、西川氏の場合は唯一の趣味だというスポーツ観戦の経験を活かし、スポーツと人生を重ね合わせている。中でも注目してほしいのが、自身の小説が直木賞の選考で落選したときの状況を記した「謝るだなんて」だ。

 受賞を逃し、祝福ムードだった場の空気を壊してしまったことにいたたまれなくなった西川氏は思わず、その場で「申し訳ありませんでした」と謝罪。そんな自身の姿を、リオデジャネイロ五輪前の世界水泳に出場し、インタビューマイクの前で3度泣いた渡部香生子選手と照らし合わせている。

 渡部選手はその世界水泳で、1、2回目はメダルを獲ってうれし泣き。しかし、3回目はリレーでの引継ぎミスで失格を取られ、メドレーリレーのリオ行きの切符がお預けとなり、悔し泣きを見せた選手だ。西川氏はそんな渡部選手の姿に切ない思いを抱いたという。

 そして、同時に「もう疲れ切ってしまって走れません」との言葉を遺して去った円谷幸吉氏の悲しき忠誠心と暗い末路も思い起こし、直木賞の受賞に敗れた日の心境をこう綴っている。

“私がくらったものは、明快な敗北ではなく、「自分に何が足りなかったか言ってみろ!」などと私に面と向かって活入れしてくる人も居ない。だからこそ私には、ひいき目の解釈などでは決して慰めの効かない勝負の世界の厳しさが眩しくも見える。”

 西川氏が語るように、私たちが日々生きている世界には勝利と敗北が明快でないことのほうが多いように思う。だが、アスリートたちは違う。彼らはプレッシャーを背負いながらも日々、勝利を得ようと戦っている。

 そんなシビアな世界で生きる彼らは憧れの的になりやすく、ヒーローとしても扱われやすいが、時には心無いバッシングを受けてしまうこともある。だからこそ、西川氏は強い精神力を惜しみなく見せてくれる彼らに温かい視線とポジティブなエールを送ろうとも訴えている。

“色んな事情や感情もあるだろうが、勝負の世界の人は、出来るだけ公に対して謝らないでほしい。人の期待や、歴史や、競技の地位の向上に貢献できなかったことを、アスリートのせいにするような観戦者を育ててはならない。”

 シビアな場面の乗り越え方を私たちに教えてくれる、アスリートたち。彼らが正々堂々とスポーツマンシップにのっとり試合をするように、私たちも選手を正々堂々と包み込むことが大切。西川氏が紡ぐ言葉の数々は、いちスポーツファンとしての心構えも教えてくれているようだった。

■ホームランを打てない自分も愛してあげよう

 映画監督や小説家として活躍している西川氏は、とても華々しく見える。だが、本作では自己嫌悪し、迷いながらも人生をがむしゃらに生き抜く彼女の意外な一面を垣間見ることもできる。

 特に西川氏の心が伝わってくるのが「これしかないけど」の章。心の内に秘められた彼女の弱音が記されており、人生の意味も考えさせられる内容となっている。

 私たちは、恋愛や仕事、趣味など何かひとつでも打ち込めることがあると幸福感を得られる。それを知っているから大人も子どもには、打ち込めるものを見つけてほしいと、つい助言してしまう。

 しかし、のめり込んだ道にも道を究めるために要した時間にも、いつかは必ず終わりが来る。西川氏の場合はそれが、1本の映画が完成した瞬間なのだそう。

“上映を観て完成を祝ってくれる人々に、「感無量です」と笑顔で挨拶をする。嘘だ。本音を言わせて頂くなら「私にはもう何も無くなりました。明日から居ても居なくてもいい人間です。どうして生きて行ったらいいんでしょう?」だ。”

 西川氏と似たような虚無感を、人生の中で味わったことがある人は多いように思う。実際に筆者も、力を注いでいた企画や原稿が完成すると抜け殻のようになることが多々ある。打ち込めるものに対する情熱が熱いほど、心が空っぽになってしまうのだ。

 だが、こうした時は西川氏が、プロ野球選手の人生を思い描きながら記したこの一節を思い出したいと思った。

“ホームランを打つことは素晴らしいことだけど、ホームランを打たなくても、必ず生き方はある。”

 人生の中で「自分にはこれしかない」と思っていたものが手から零れ落ちていくと、私たちは不安になってしまう。だが、そうなった時に別の生き方を柔軟に考えていけたら、人生をおもしろくすることや生きる楽しみを見出すこともできるはず。

 完璧な幸せなど、この世には存在しないのだから、“ホームランを打てない自分”も愛せるよう、価値観を育てていけたら…と考えたくなった。

 スポーツを単なる競技として捉えるだけではなく、“人生”として観る西川氏。彼女の言葉は、人生に悩んでいる人や生き方が分からなくなった人に勇気を与えてくれる。

 本作には広島県出身の西川氏らしいカープ愛もふんだんに盛り込まれているので、カープファンの方も、ぜひチェックしてみてほしい。

文=古川諭香