「夫はいらない。でも子供が欲しい」――ドバイの赤ん坊市場を訪ねる日本人女性…原発事故後のありえたかもしれない世界

文芸・カルチャー

公開日:2019/3/1

『バラカ』(桐野夏生/集英社)

 もし東日本大震災による原発事故がもっと大規模な被害をもたらしていたら……。

『バラカ』(桐野夏生/集英社)はそんな「あったかもしれない」世界で生き抜くことを余儀なくされた少女の、数奇な運命を描いた物語だ。

 日本の地方都市に移民してきた日系ブラジル人の若い夫婦パウロとロサに、初めての子が授かった。「ミカ」と名付けられたその子は幸せいっぱいの家庭ですくすくと育ち、と言いたいところだが、神は彼女にそんなイージーモードの運命を与えはしなかった。

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 パウロは大学まで出ているにもかかわらず、単純労働しか働き口がない現状に嫌気がさし、酒に頼る毎日を送っている。一人で慣れぬ育児を背負わされたロサは、ストレスのはけ口を求めて「聖霊の声」教会というプロテスタント系の新進教会に入れ込むようになった。ロサが高額の献金をし始めたことに気づいたパウロは、これ以上深入りさせないように、一家で好景気にわくドバイに移り住むことを決意する。

 そして、運命の輪は東京でも回り始めていた。

 テレビ局の制作部門で正社員として働く優子は、誰からも羨まれる境遇とは裏腹に、同性の同僚に業績で水を開けられつつある現状に強い焦りを感じていた。だが、その友人で大手出版社の編集者である沙羅の焦りはさらに激烈だった。

「夫はいらない。でも子供が欲しい。それも、今すぐ」

 欲しいものはすべてを手に入れるのが当たり前のバブル世代ならではの強欲さに、無分別というドライブが加わり、2人は手を出してはいけない罪に突き進んでいくのだ。

 さらに、悪夢のような男・川島の奸計で悲劇の予感が極大まで高まった時、それは起こった。

 東日本大震災と原発事故。どんな悲劇でさえも呑み込んでしまう破局によって、登場人物たちすべての運命は激変し、ミカは奇跡の子・薔薇香(バラカ)となっていく。

 とにかく、この物語世界に生きる人間たちは揃いも揃って徹底したエゴイストだ。ごく少数の良心的な人たちは、彼らの暴力的なエゴイズムを前にあっけなく潰され、敗退していく。

 だが、これは、決して誇張された光景ではない。

 震災からしばらくの間はいわゆる「災害ユートピア」と呼ばれる状況にあった現実世界も、みるみる間に嘘とごまかしが蔓延し、震災弱者を切り捨てるような流れになっていった。

 原発事故の象徴的存在として、反原発派からも原発推進派からも利用価値を見出された薔薇香は、そのために時には命の危険にさらされ、大切な人を次々と奪われていくのだが、その背景には問題を未解決のまま隠蔽したい大きな意志が見え隠れする。そして、それを支えているのは、臭いものに蓋をしておきたい日本人全員のエゴイズムだ。

 登場人物たちが振りかざす身勝手さは、一つ一つを取れば個々の人生に収まるスケールに過ぎない。しかし、それらが積み重なって「空気」になっていくと、国を覆う暗雲に変化する。

 一貫して綺麗事抜きの人間性と向き合ってきた作家が、「神の恩寵」を意味する名を与えた一人の少女の生き様を通じて描こうとしたこの時代のエゴイズムと、じっくり対峙してみてほしい。

文=門賀美央子