80歳の新人歌手はアルツハイマー患者――イギリスで起きた感動の実話

暮らし

2019/3/29

『父と僕の終わらない歌』(サイモン・マクダーモット:著、浅倉卓弥:訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

 2016年、とある動画が全世界で話題になった。息子の運転する車の助手席で、高齢の父親が見事に「クアンド・クアンド・クアンド」を歌い上げている姿が、瞬く間に拡散されたのである。老人の正体は当時、すでに80歳目前となっていたテッド・マクダーモットだった。若い頃はクラブやバーを中心に活動していた歌手で、愛称は「ソングアミニットマン(The Songaminute Man)」。どんなジャンルの曲も1分メドレーのように歌いこなせてしまうからである。しかし、何より世間を驚かせたのは、テッドがアルツハイマー病の患者で、家族のことすら認知しづらくなっていた事実だった。

『父と僕の終わらない歌』(浅倉卓弥:訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)は、息子のサイモンが綴ったテッドの半生記である。若い頃から音楽と家族を愛していたテッドに、徐々に病が蝕んでいく過程は悲しくもある。しかし、そんなとき、テッドの支えになったのもまた、音楽と家族だった。本書は自分や家族がアルツハイマーに悩んでいる人だけでなく、どうしようもなく大切なものがある人の心にも響くだろう。

 テッドは1936年、イギリスのウェンズベリーで生まれた。幼い頃から父親と一緒に労働者が集うパブへと出かけていたテッドは、自然と大人の社交場での立ち回りを身につけていく。そして、パブの客たちが愛する音楽にも目覚めていった。10代になると、テッドの歌声は地元の評判となる。何しろ、お祭りでプロのオペラ歌手が来たにもかかわらず、観客からはテッドのコールが巻き起こってステージに立ったというのだから相当なものだ。

 20代、30代と、テッドは音楽漬けの日々を送る。昼間は工場で働き、夜と週末は気心の知れたバンド仲間とクラブを巡業する。しかし、頑固な職人タイプの歌い手だったテッドは、メジャーデビューのチャンスに恵まれなかった。やがて、恋人がサイモンを妊娠すると結婚して、生活の中心は仕事と子どもに変わっていった。

 大人になったサイモンが自立し、テッドが妻と2人暮らしを始めた頃、異変が起き始める。テッドは物忘れが激しくなり、非常に怒りっぽくなっていった。誰よりも家族を愛していた男が、妻やサイモンにさえ聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせるようになった。典型的なアルツハイマーの症状だ。やがて、テッドはサイモンですら我が子と認識できないまでに症状を悪化させていく。サイモンは病気へのやりきれない気持ちをこのように記す。

アルツハイマーは盗賊だ。日常から希望を奪い、常識を打ち砕いてしまう。

 サイモンがテッドのためにレコーディング・スタジオを予約したのも、少しでも記憶が残っているうちに父親の歌声を保存しておきたかったからだ。ヘッドフォンも上手くつけられなかったテッドはしかし、15曲もぶっ通しでレパートリーを歌い切ってしまう。一発勝負ゆえ細かいズレこそあったものの、歌詞とキーは完璧だった。数分前の出来事すら思い出せないテッドはしかし、50年前に自分が歌っていた音楽を忘れていなかったのだ。

 話題の動画が撮影されたのもこの頃である。サイモンは最初、1000ポンド(15万円)ほど集めてアルツハイマー協会に募金するつもりだった。しかし、数千万回も再生された動画の影響で、募金はいつの間にか10万ポンドを超えた。テッドはイギリス中の人気者となり、80歳でレコード会社からのデビューまで果たしてしまう。

 サイモンや世間からの興奮をよそに、テッドは自分がスターになった事情を理解できていない。しかし、テッドは再び歌うようになってから攻撃性が弱まり、家族にも穏やかな態度を見せるようになったという。老いや病気はすべての人に訪れる。しかし、それを嘆いていても始まらない。大切な人々と、自分が大切にしているものがあれば、いくつになっても人生の可能性は残されている。テッドは世界中にその事実を教えてくれた。

文=石塚就一