自己責任を叫ぶ人こそ“無責任”? 自己責任”は人を見捨てることの免罪符なのか

社会

更新日:2019/4/3

『無責任の新体系――きみはウーティスと言わねばならない』(荒木優太/晶文社)

 大人になるといろいろな“責任”がつきまとうようになる。国務大臣が不祥事を起こせば「責任を取って辞任しろ!」――いわゆる引責辞任だ。また、犯罪をおかせば法に則って刑事罰に問われる。刑期を全うすることでその責任を果たす。

 しかし、不祥事を起こした国務大臣が辞任することで国民は納得するのだろうか。犯罪をおかした人が刑期を全うするだけで被害に遭った人たちは納得するのだろうか。

“責任”という言葉はなんとなくわかるようでつかみどころがない。つかみどころがないから、責任の所在がうやむやにされていつの間にかなかったことになってしまうことだってある。

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 本稿にて取り扱う書籍は『無責任の新体系――きみはウーティスと言わねばならない』(荒木優太/晶文社)である。本書に基づきながらみなさんとともに“責任”について考えていけたらと思う。

■日本における“責任”は“無責任”がメイン?

 日本の場合には“責任”がメインにあるのではなく“無責任”がメインにあるのではないか、とわたしは思う。

 日本では一昔前まで何かにつけて“連帯責任”という言葉が聞かれたが、本書によれば、これは無責任の表れにすぎないのだという。それは、誰にでも責任があるがゆえに、誰もが決定的な責任主体ではないという論理だ。これは丸山眞男氏の発見した「無責任の体系」の中でも示されている。

 ここで本書の著者である荒木氏は明確な責任主体の立ち上げで問題は解決するか、という問いを立て、自ら以下のように答えを出している。責任主体を立ち上げることは、すなわち無責任の領域を確保することであると。そして荒木氏はこれを「無責任の新体系」と呼んでいるのである。

 無責任の領域をしっかりと確保して責任を誰かになすりつける「無責任の新体系」が示すのは、つまるところ、日本人の“責任”観の中心には“無責任”がずっしりと腰を据えているということに他ならないのではないだろうか。

■“自己責任”の正体

 シリアの紛争地帯に自らの意志で赴き、当地で3年にわたって武装勢力に拘束されていたジャーナリストに対する“自己責任論”が話題になったことは記憶に新しい。

 たしかに、自分の意志でなした行いについての責任は当人にあるという“自己責任論”はわからないでもない。しかし、「誰もやらないならオレがやるしかない!」という意志のもとでなされた行いとそれに付随する結果に対する責任を当の本人のみにしか帰すことができないという考えは暴論ではあるまいか。誰もやりたがらないことをすすんで引き受けた者が生み出した結果に対する責任は、当の本人ではなくむしろ社会に求めるべきではないのだろうか。

 本書では序盤に“自己責任”についての言及もある。それによれば、「それは自己責任である」という発言は当の“自己”から発せられるものではなく、見捨てることを正当化しようとする他者による発言であることが往々にしてある、ということである。これがもし事実なのであれば、他者による“自己責任”の追及もまた“無責任”の表れだということができそうだ。

 日本人には“強い個人”の意識があまりない。だから、誰かが責任を取らなければならない場合には、“連帯責任”というかたちで個人としてではなく集団として責任を取るということが往々にしてみられた。

 しかしその一方で、“自己責任”の名の下で誰かひとりに責任を押し付け、あとは見て見ぬふりをするといった事態も最近では見られるようになってきた。

 いずれにせよ、その根底にあるのは“無責任”だ。わたしたちは責任問題が存在する以上、“無責任”の呪縛から逃れることはできないと思った読後であった。

 実をいうと、本稿では『無責任の新体系』という書籍の全体を俯瞰することはできなかった。むしろ取り上げることができたのはほんの数パーセントだけである。全体を俯瞰するような記事が書けなかったのはわたしの力量の問題であり、わたしの“責任”である。

 しかしそれでも、本稿を読み『無責任の新体系』を手に取って、“責任”についてみなさんなりに自分の考えを深めていただきたい。

文=ムラカミ ハヤト