生徒による教師への暴行事件の背景にあるもの…「学校ハラスメント」の問題点とは

社会

公開日:2019/3/29

『学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』(内田良/朝日新聞出版)

 2017年9月、高校生から教師への“暴力事件”の動画がTwitterで拡散されたことを記憶している人も少なくないだろう。動画には生徒が教壇に立つ教師を蹴り飛ばす模様が映されており、加害生徒は翌日の夜に逮捕された。

 学校という教育の場で事件が起きており、そこには学校“だからこそ”起きてしまうという側面がある。『学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』(内田良/朝日新聞出版)はその問題の核心に迫る。

 加害生徒はなぜ、翌日の夜になるまで逮捕されなかったのだろうか。そこには、2段階の「バリア」があった。

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 まず、被害を受けた教師が報告をしなかったことがバリアとなった。校長が事件を知ったのは、Twitterで動画が拡散され、警察から連絡が入ったときのことだった。教師は「自分で時間をかけてこの生徒を指導したかった」と、報告しなかった理由を述べた。しかしとある別の教師は「教育上の失敗と、暴行を受けることの是非は分けて考えなきゃいけない」と断じる。

 もうひとつのバリアとなったのは、学校側の対応だった。学校も当初、生徒を「教育」の範疇で処するつもりだった。しかし警察とも話し合いがおこなわれ、学校側は方針を転換。被害教師が事件翌日の夕方に被害届を提出し、同日夜に生徒は逮捕されるに至った。

 SNSがなければ、今でもこの事件は公になっていなかったのかもしれない。「教育」という大義名分が、その事態を隠蔽したり深刻化させたりもしている。

 ここに「学校ハラスメント」をひもとく大きなカギがある。学校は「教育」という名のもとで、往々にして問題が“ブラックボックス”となりやすい場なのだ。

 本書は教師だけを中心に据えているわけではない。教師はもちろん、生徒、保護者、マスコミ、教育委員会など、あらゆる関係者がハラスメントの被害者にも加害者にもなり得る。

「特定のカテゴリに属する人びとを敵視するのではなく、苦しんでいる人を起点にして、ハラスメントを考えていくことが私の指針である」と内田氏は言う。そして「学校ハラスメント」を議論の俎上に載せることによって内田氏が望むのは、学校の活動を抑制させることではなく、問題となっている部分が改善されて全体がより良く運営されることだ。

“「ハラスメント」とは単に誰かを告発するためにあるのではなく、組織全体を健全に維持するための重要な着眼点なのだ。”

 教師への暴力問題の他にも、巨大組み体操問題やスクール・セクハラ問題、部活動問題など、本書では多岐にわたって学校ハラスメントの“今”が著されている。なぜ学校管理下でハラスメントが横行してしまうのか、本書を読み進めながら考えてみてはいかがだろうか。

文=えんどうこうた