令和が生まれた背景を探る! 日本人は「元号」とどう付き合うべき?

社会

公開日:2019/4/17

『元号と日本人』(プレジデント書籍編集部:編、宮瀧交二:監修/プレジデント社)

 新元号「令和」が公表された際に、一部の政治家や知識人などから「天皇が時代を支配することを意味するのでは?」と、元号の使用に反対する声が挙がった。しかし、「西暦」はイエス・キリストが生まれた翌年を元年(紀元)としていることを考えると、それに対する抵抗はないのか、とツッコミたくもなる。また、今回はじめて中国古典ではなく国書である『万葉集』を典拠としたことに対して、国粋主義や右傾化を懸念する声があったかと思うと、その一方では『万葉集』の詩歌の原典は中国にあるなどという批判も出た。『元号と日本人』(プレジデント書籍編集部:編、宮瀧交二:監修/プレジデント社)には、こういった背景についても詳しく解説されている。

■元号の起源を遡ると中国に辿りつくが…

 元号の歴史は中国・漢の時代にさかのぼり、紀元前(キリスト以前の意)140年を、皇帝の地位にあった武帝(ぶてい)が「建元(けんげん)元年」としたのが最初だそうだ。後の唐の時代には、中華思想のもと、周辺のアジア諸国をも中国の属国と考えた。

 歴史の授業で習ったように、邪馬台国の卑弥呼は中国に貢物を贈ることによって、自国の存在と地位を中国に認めてもらっており、これは「朝貢(ちょうこう)外交」と称され、朝貢している国々は中国の元号を使わざるを得なかった。たとえば、7世紀頃に朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)は独自の元号を使っていたものの、唐から「なぜ唐の元号を使わないのか?」と問い詰められ、唐の年号を使うようになったくらいだ。

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 ところが、日本では「大化」を最初の元号としたのちに表向きは中国に仕えているように振る舞いつつ、朝貢外交を快く思わない厩戸皇子(聖徳太子)やそのグループが政で台頭してくると、奈良時代からは独自の元号を使うようになったという。漢服(着物)とか漢方薬といった他国の文化や知識などを取り入れつつ、それを独自に発展させていくのは、この時代から日本のお家芸だったのだ。

 元号は明治から一世一元の制が定められたが、それまでは天皇の即位による代始めの改元(代始改元、即位改元)のほかに、地震や噴火といった天変地異が起きたときに厄を払うために改元(災異改元)したり、政治的な理由や目的で改元されたりしたこともある。中でも災異改元は目立ち、富士山噴火に続いて起こった「貞観(じょうがん)地震」はもちろん、再び必ず起きるとされている南海トラフ地震に関係する「宝永(ほうえい)大噴火」は、防災意識を持ち続けるためにも覚えておきたいところだ。

■日本人は「元号」とどう付き合うべき?

 興味深いのは、ある出来事が元号をまたいでいる例で、「文化(ぶんか)」から「文政(ぶんせい)」へと続いた時代は、江戸の町人を中心に社会風刺を取り入れた川柳(せんりゅう)や狂歌(きょうか)などが人気を博し、歌舞伎の人気も上がってきて、2つの元号を合わせた「化政文化」と呼ばれている。そして、ペリーが来航した「嘉永(かえい)」から「安政(あんせい)」「万延(まんえん)」「文久(ぶんきゅう)」「元治(げんじ)」と続き、「慶応(けいおう)」で徳川幕府が終焉を迎え、その後の「明治」までを含めて「明治維新」の時代とするのが通説になっている。

 本書を読み、特に印象に残った元号は「大宝(たいほう)」だ。大化以来、天皇が元号を定めなかったり公式な史書に記されない私年号を用いたりして元号が途絶えていた西暦681年に天武天皇から命じられ、編纂が進められていた律令(犯罪と刑罰に関する法の「律」と、行政法や民法にあたる「令」)が完成し、それを「大宝律令」と呼ぶのだが、「日本」という国号が定着したのもこの頃だからだ。

 現代の日本においては、「天皇が支配する」という批判をするのでなく、特撮ファンの間で早くも来年の仮面ライダーの映画が「昭和ライダーvs.平成ライダーvs.令和ライダー」になるのではないかと話題になっているように、“時代の区切り”として元号を使うのが平和でよさそうだ。

文=清水銀嶺