舞台に立つことを夢見る少女と、かつての少女たちの心を鮮やかに描き出す『淡島百景』

マンガ

公開日:2019/5/2

『淡島百景』(志村貴子/太田出版)

 大人になれば、悩みなどなくなるのだと思っていた。ところが、いざ大人になってみると、悩みなんてなくなるどころか増えている。自分だけが悩んでいたわけではなかったのだということも、だんだんとわかってきた。気がついていなかっただけなのだ。教室で隣の席にいたあの子も、ちょっと苦手な先輩も、いつも元気な後輩も、それぞれ悩みを抱えていたのに──女の子たちはみな、朝の支度を終えてしまえば、素顔を見せない名役者たちだから。

『淡島百景』(志村貴子/太田出版)は、そんな少女たちの仮面と素顔を、重層的に描き出す群像劇だ。

 淡島歌劇学校合宿所──そのままの名ではあまりに色気がないので、生徒たちは代々“寄宿舎”と呼んでいる。春、その“寄宿舎”に入寮したのは、ミュージカルスターに憧れて淡島歌劇学校に入った新一年生の田畑若菜。寮での暮らしは、なかなかに気を遣う。なにしろ、部屋は先輩と同室、お風呂は共同浴場だ。そんな共同生活に耐えられないと涙を流す入寮生は、先輩方に“手のかかる子”と眉をひそめて見られるが、反対に“手のかからない子”は、先輩に媚びを売っていると同学年に嫌われる。絵に描いたような女の園だ。

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 女ばかりが、舞台に立つというひとつの目的を持って集ったそこは、外から眺める印象よりも、綺麗なだけの世界ではない。うつくしい薔薇には棘があるように、入学して1年目の生徒はみな、「なんでこんなとこ来ちゃったんだろう」と考える。散っていく花もある、病んで落ちる花もある、咲かずに終わる花もある。だが、そこに留まる少女たちには、その場で咲こうとする理由があるのだ。

 各話で主人公を変え、時代と視点を自由に行き来しながら少女たちの心を写し取る本作だが、最新刊の『淡島百景3』(志村貴子/太田出版)でもまた、さまざまな人物の素顔が描かれる。

 たとえば、家庭にとある事情を抱え、胸のうちを打ち明けられる友人を持たないあさみ。寄宿舎生活で実家を離れたことで、生家と自分との関係や、みずからの本心を見つめ直す。

 たとえば、淡島歌劇学校を卒業後、トップスターとして活躍してきた沙織。療養のため舞台の降板が決まったが、その代役を務めることになったのは、学生時代のライバル的存在・実花子だった。ひとつの役を奪い合う者同士として、複雑な思いを抱えるふたりが、沙織の病室で対峙する。学生時代より少しだけ大人になった彼女たちは、たがいの確執を融かし合うことができるのか。

 たとえば、寄宿舎で2度目の春を迎える若菜。入寮する新一年生の中には、W不倫を報じられた俳優と女優の娘がいて、若菜たち先輩一同は、彼女への接し方に悩むのだが──。

 本作を読んでいると、あらためて気づくことがある。芸名と本名、旧姓と結婚後の姓、娘・妻・母・祖母という立ち位置。女は、その名前だけを見ても、こんなにも多くの役名を持つ。さらに少女たちは、そしてかつて少女だった女たちは、舞台の上の虚像に怯える。憧れの対象、永遠のライバル、周囲が求めるイメージどおりに輝く自分。トップスターの沙織は言う、「私たちを縛り付けるものは たいてい私たち自身だ」。

 どんな役でも演じられるということは、演技をやめれば、素の自分に戻ってしまうということでもある。時代と視点を行き来しながら描かれる少女たちの心の風景に、ときに深く、ときに懐かしく共感しているうちに、あなたはいつしか、淡島歌劇学校の世界に描かれた、少女時代の面影のままのあなたの素顔に出会うだろう。

文=三田ゆき