死んでいるはずの幼女の手が男の足首を掴む……16年前の事件に酷似。元警察官が真実を追う、慟哭のミステリー

文芸・カルチャー

公開日:2019/5/28

『慈雨』(柚月裕子/集英社)

 深い霧の山中で、腰丈まである笹を捜査棒でかき分けながら進む警察官の男。ふと気がつけば、男の周囲では男の父や旧友、かつての同僚が同じように地面を探っている。

 そして男は探していたものを見つける。手足を投げ出し、仰向けの姿勢で横たわる幼女。「被害者の遺体発見!」、男がそう叫びかけた時、すでに死んでいるはずの幼女の手が男の足首を掴み、小さな口はか細い声で訴える。

「おうちに、かえりたい」――冒頭の鮮烈な「悪夢」に思わず戦慄する柚月裕子さんの『慈雨』(集英社)は、組織への忠誠と自らの信念の間で揺れる元警察官の葛藤を描く警察小説であり、家族や人生の本質を問う骨太な人間ドラマだ。

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 2016年度の「本の雑誌が選ぶベスト10」で第1位を獲得した話題作が、このほど待望の文庫となって登場した。

 群馬県警を定年退職し四国遍路の旅に出た神場智則は、旅の途中、群馬で小1の少女が誘拐され殺害されたことを知る。事件の特徴が16年前に自らが捜査にあたった「純子ちゃん殺人事件」に酷似していることに胸騒ぎを覚えた神場は、思わず捜査本部にいる後輩の緒方に連絡を取るが、そんな神場の気持ちを察した緒方は今後も捜査の進捗を報告することを約束する。すでに現場を退いた身と一度は拒むものの、16年前の事件への悔恨が残る神場は緒方の申し出を受け入れ、巡礼を続けながら捜査に協力することになる。

 元は自分が関わった事件の被害者たちの弔いのために始めた四国遍路は、「退職したあとも置き去りにされるのか」という妻・香代子との夫婦水入らずの旅でもあった。徒歩による巡礼を選んだ2人の道中は決して容易ではないが、美しい自然の険しさとやさしさに包まれ、ふとした瞬間に2人のこれまでの道のりが頭をよぎる。仕事に没頭し、今まで妻や娘の心情を思いやる余裕すらなかった自分。だが、本当は何を思っていたのか…。

 冒頭の悪夢に登場する「男」とは神場のことだ。16年前の事件は無事に解決したことになっているものの、実はその後も神場の心に大きなわだかまりを残し、今も悪夢となって彼を苦しめ続けている。警察官の妻として夫の仕事には口も出さなければ不満ももらさなかった妻は、旅の最中もそんな悪夢にうなされ、退職してもなお事件にこだわる夫に違和感を持ちながらも、やはり静かに受け止める。切迫した捜査現場とは裏腹の、しみじみとした旅情あふれる旅の起伏はまるで人生の起伏そのもの。忘れていた自然体の心のやり取りが少しずつ戻るにつれ、あらためて神場は家族の意味を考えるようになっていく。

 人はなぜ巡礼するのか。巡礼に意味などあるのか――自ら選んだ旅でありながら、問いを重ねる神場。虚ろな目の巡礼の男は、結願した時には表情が柔和になり背負った重い罪について告白し、ご接待のお茶を振る舞ってくれた老女は、自らの辛い過去を笑いながら振り返った。おそらく仏の救いなどそんなに簡単にあるものではない。誰もが何かを抱え、それでも生きていくしかない。そしてそれを受け入れることが、自分の人生に向き合うということ――巡礼が教えてくれるのは、そんな当たり前の事実なのかもしれない。神場は少しずつ見ないようにしていた消せない過去に向き合い、彼なりの答えを導き出す。それは彼にとって「それでも人生を生きていく」ために必要なことだった。

 深く心に染みるその味わいは、日本推理作家協会賞受賞作家であり、重厚さと細やかな心理描写を得意とする著者の真骨頂だろう。思わず静かに涙を流してしまう、極上のミステリーだ。

文=荒井理恵