業務用携帯を握ったまま過労死した元NHK記者、佐戸未和さん(享年31)を忘れてはいけない

社会

更新日:2019/6/5

『未和 NHK記者はなぜ過労死したのか』(尾崎孝史/岩波書店)

「高橋まつり」さんという名前に、聞き覚えのある人は多いだろう。2015年12月25日に、過労を苦に自死へと追い込まれた元・電通社員だ。その死をめぐっては、厚生労働省や首相までもが大きく問題視し、企業トップの交代劇にまで波紋を広げた。こうした結果、過労死のアイコンとして、まつりさんの名は人々の記憶に残った。

 そのまつりさんの死よりも先立つこと、約2年前の2013年7月24日(推定)、自宅マンションで睡眠中、そのまま天に召された女性がいた。

 元NHK記者の佐戸未和さん(享年31)である。死亡日が(推定)なのは、独り暮らしをしていたからだ。

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 じつは筆者も身内と、同じ別れ方を体験している。ついさっきまで元気だったはずの人が、ある晩、二度と話せぬ人となる。遺族は、現実が受け入れられず呆然とするなか、法的な作業に追われる。傍ら、胸中に込みあげてくる故人への言い残し、やり残しへの後悔の念は山積みになるまま、解消するすべはない。

 こうした遺族にできることは、「なぜ娘は突然死しなければならなかったのか」「何を言い残したかったか」を慮り、それを世に伝えること。それが「せめて」もの弔いなのである。

●NHK記者が過労死、労災認定、月残業時間159時間

『未和 NHK記者はなぜ過労死したのか』(尾崎孝史/岩波書店)は、未和さんのご両親(佐戸守さん、恵美子さん)や兄弟姉妹たちご遺族、そして著者の、そんな「せめて」が詰まった1冊だ。

 2017年10月5日、本書の著者で、NHKに外部スタッフとして携わっていた映像作家・写真家の尾崎孝史は、朝日新聞が報じたニュースに愕然とする。

 そこにあったのは「NHK記者が過労死、労災認定、月残業時間159時間」の文字だ。とっさに「なぜ、NHKに勤めながらも自分は、この事実を知らなかったのか」という疑念に駆られたと尾崎氏は記す。

 未和さんが亡くなったのは13年で、世に公表されたのが17年。そこには4年間の謎のブランクがある。

 この間、NHK内では未和さんの死因とその名前はごく一部の人たちの間に秘められていた。その一方で番組では、「まつりさん」問題を再三報じ、問題提起をし続けていた。月残業時間だけでいえば、NHKの方がブラックだったにもかかわらず、だ。

●糾弾されていくNHKの隠ぺい体質

 本書には、未和さんの生い立ちや、NHK記者の過酷な仕事現場の様子が克明に記載されている。しかし本当はもっと他にも、本書が追えなかった、過労死を引き起こした重大な要因があった可能性もある。

 その真相が明確にならないのは、NHKが本書に対する一切の取材協力を認めなかったからだ。それでもなんとか仕事現場が再現できたのは、外部スタッフながらもNHKに勤めていた著者の熱意と人脈、そしてごく一部の協力者たちがいたおかげである。

 そして本書は後半以降、テーマの矛先をNHKの隠ぺい体質の糾弾へと向けていく。二度と同じ犠牲者を出してほしくないからだ。なぜ、前述の謎の4年間のブランクがあったのか、そのあたりはぜひ、本書でご確認いただきたい。

 未和さんの死因は、うっ血性心不全とされた。

 亡くなる前の13年6月下旬から7月下旬まで、1カ月間の残業時間は、159時間37分。厚労省の過労死ライン「80時間」の約2倍だ。5月下旬からの1カ月間も、146時間57分。都議選と参院選の取材が重なったことが原因だ。

 そして参院選の開票速報番組において、NHKが目標にしていたミッション(視聴率等)の達成に貢献し尽くしたその3日後、命までもが尽きてしまったのである。

●人はみな自分の「命の責任」を負っている

 ベッドで横たわったままの未和さんの手には、業務用携帯が握られたままだった。

 しかし、数日の無断欠勤状態にもかかわらず、参院選後とあってか、未和さんのことを気にしたNHK職員はいなかった。

 その変わり果てた姿を発見したのは、丸2日連絡がつかないことを不審に思って駆け付けた、遠距離恋愛中の婚約者だった。しかも、婚約者はその間に一度、連絡がつかない異常事態をNHKに電話で連絡している。にもかかわらず、未和さんは放置されたのだ。

 もし参院選の最中であれば、事態は違っていたはずだ。未和さんの携帯は着信の山で、たとえ「体調が悪い」と訴えたところで、「後で休め、いまは取材だ」と駆り出されたかもしれない。

 人は歯車ではなく、かけがえのない命であるということを、巨大化すればするほど、組織のなかで人は忘れていく。

 本書を読むと、未和さんという人物が、いかに家族や婚約者、取材対象者など、誰に対しても、つねに思いやりを欠かさなかったかがしのばれてくる。そして、弱者に寄り添える記者という目標のために、決して弱音を吐くことなく、つねに全力を出し切っていたことも。

 そして「責任感」について、改めて考えさせられるのだ。

 いかに企業を糾弾し、環境を改善させようと、最終的に自分の命を守れるのは、自分しかない。人は皆、仕事への責任だけではなく、命の責任も負わされている。

「限界かも」と思う前に他者に相談する。「限界だ」と感じたら、すみやかに命を優先する。それも立派な「責任を果たすこと」だ。

 筆者には、そんな自己防衛策の重要性を、本書を通して未和さんが語りかけてくれたような気がした。

文=町田光