帝国図書館が今日まで辿った数奇な運命を、実在の著名人を絡めて描く『夢見る帝国図書館』

文芸・カルチャー

公開日:2019/6/16

『夢見る帝国図書館』(中島京子/文藝春秋)

 JR上野駅公園口から動物園や美術館が並ぶ上野恩賜公園を東京藝術大学方面に向かうと、レンガ造りの堅牢な建築物が視界に入る。子どものための本を揃える「国際子ども図書館」だが、正直子どもだけのためにするのはもったいないほどクラシカルで素敵な佇まいだ。それもそのはず、これは今から100年以上前の1906年に帝国図書館として建てられた、明治から続くルネッサンス様式の歴史的建造物なのだ。

 中島京子さんの『夢見る帝国図書館』(文藝春秋)は、この国際子ども図書館が帝国図書館だった時代を知る、喜和子という高齢女性を取り巻く物語だ。

 主人公の「わたし」(なぜか、名前はない)はある日、上野公園で孔雀を思わせる奇天烈な格好の女性と出会う。喜和子と名乗る短い白い髪の女性は、小説家志望でフリーライターの「わたし」に、「上野の図書館のことを書いてみないか」と突然切り出す。お題は「夢見る帝国図書館」。「わたし」は自分で書けばいいのに、と思いながらも喜和子と言葉を交わすようになり、間借り人で藝大生の雄之助や、元恋人で大学教授の古尾野などと知り合っていく。

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 喜和子の過去には謎が多いが、彼女はかつて古尾野と、上野でホームレスをしていた「山本學似」の男性を同時に好きになったこともあると語る。ホームレスの男性に惹かれたことに驚く「わたし」に喜和子は、

「上野って、昔から、そういうとこ」
「ここは上野よ、いつだって、家のない人、身寄りのない人を受け入れてきた場所よ。懐が深いの。それが上野ってとこなの」

と言う。その通り、上野に住む喜和子の周りには、ホームレスの五十森に限らずさまざまな属性の人たちが現れては、消えていく。

 この人間模様だけでも物語として十分に成立しているのだが、この作品には本編に同時進行で挿入される、『夢見る帝国図書館』という書き手が明かされない小説内小説がある。洋行帰りの福沢諭吉が叫んだ奇怪な西洋言葉「ビブリオテーキ!」を作るべく生まれた、帝国図書館の歴史に触れたものだ。

 帝国図書館の前身となった湯島聖堂にある「東京書籍館」には蔵書が全然なく、永井久一郎(永井荷風の父)が「書籍は地味だが役に立つんだ!」と憤慨したこと、書籍館には幸田露伴や夏目金之助が通い詰めたこと、火事がきっかけで上野に移転したことなど、実在の文豪を登場させながら、帝国図書館を描き出していく。

 そんな小説内小説は第6章で、「もし、図書館に心があったなら、樋口夏子に恋をしただろう」と、図書館の「心」にフォーカスする。樋口夏子、のちの樋口一葉は図書館と同じ明治5年に生まれ、二十歳で肩こりと近眼に悩まされていた。いつも金がなく、本を読むことにも飢えていた。

図書館は、わが懐で飲むように書籍を読了していくこの稀代の女流作家の卵が、かわいくてかわいくてならなかったに違いない。

 金も本もないのは図書館も同じだったから、シンパシーを感じたのかもしれない。だがなぜ図書館が樋口一葉を恋したのかの、根拠はハッキリしない。そして一葉は喜和子にとっても、一番好きで生涯手元に全集を置いていた作家だ。

 この『夢見る帝国図書館』には一葉以外にも、何名かの女性作家が登場する。吉屋信子、宮本百合子、林芙美子、そしてベアテ・シロタだ。帝国図書館に通い詰め、のちに作家となった女性は他にもいたことだろう。なぜ彼女たちが登場するのか。そこに著者である中島京子さんの思いが込められている気がしてならない。

 今で言うセクシャル・マイノリティだった吉屋信子、共産党員だったゆえに戦時中に弾圧を受けた宮本百合子、金のなさからありとあらゆる仕事をしつつも文学への傾倒を失わなかった林芙美子、ユダヤ系ロシア人の父を持ち、憲法草案に携わったベアテ・シロタ…。そう、彼女たちは時代の中で必死に戦って、自分の思いを文章に込めてきた。そんな女性たちに寄せる尊敬の念を、本編の空気感を損なうことなく描き出す中島さんの筆致に舌を巻く。

 中島さんは女性たちだけではなく、上野動物園の動物たちにも思いを寄せる。戦時中、仙台動物園や名古屋の東山動物園が譲り受けたいと言ったにもかかわらず、殺されてしまった象の花子とジョン、トンキーのエピソードは童話『かわいそうなぞう』(土家由岐雄/金の星社)に詳しいが、『夢見る帝国図書館』では動物たちを殺したくなかった園長代理に都長官が

「この国の人々はゆるすぎる。いいかげんな覚悟では聖戦は勝ち抜けんのだ。動物たちには死んでもらう。お国のために死んでもらう」

と移送を拒否した、殺処分の理由が明らかにされる。

 また関東大震災が起きた際には帝国図書館にも多くの被災者が避難してきたが、ただ「大震災があった」で終わることはない。自身も朝鮮人と疑われて「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマにより虐殺されかかった小説家の宇野浩二を登場させ、酷い歴史の事実にも触れている。さらに帝国図書館館長だった松本喜一が昭和3年、図書館にできることを問われた際に

「図書館が思想的に良いと思われる本を選定し、文部省に権威ある良書委員会を設けて、お墨付きをいただくのはどうでしょう」

と、文部省の思想統制に自らの姿勢を沿わせるような答申をしたことを紹介しながら、戦争により文学や本が辿った不幸も描き出している。

 このように紹介すると本作がいかにも堅苦しい話のように思えるが、あくまで「平和を喜ぶ子ども」である喜和子さんと「わたし」が、ともに過ごした日々が小説のテーマだ。

 静かで温かな読後感を得つつも、中島京子さんの本と図書館、そして時代の空気に対する強い気持ちが感じられる。そして1冊で“3冊分の本”を読んだ気にもなれる。なぜ3冊なのか? その種明かしはぜひ自身で確かめてほしい。

文=朴順梨