北朝鮮に生まれていたら…11年前の殺人強姦事件の再捜査。史上初、平壌郊外を舞台にした警察小説!

文芸・カルチャー

公開日:2019/6/28

『出身成分』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 次に何を書くか予想がつかない人。『万能鑑定士Q』『探偵の探偵』などで知られる松岡圭祐は、そんな評価がふさわしいミステリー作家だ。

 ここ最近に限っても、事故物件を扱ったミステリー『瑕疵借り』、グアムの日系人3世代が謎に挑む『グアムの探偵』、女子高生が武装勢力に立ち向かう『高校事変』、とその作風は多彩の一言。さらに『黄砂の籠城』『八月十五日に吹く風』など近現代史を扱った歴史巨編にも挑戦し、活躍の幅をますます広げている。

 したがって次にどんな作品が書かれても驚かないつもり……だったのだが、6月28日に発売された最新作『出身成分』(松岡圭祐/KADOKAWA)にはまさに意表をつかれた。なんと北朝鮮を舞台にした、本格警察小説だったからだ。

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 現代の平壌郊外を舞台に、日本人のまったく登場しないミステリーを書く。想像するだけでも大変な作業だが、そんな高いハードルをやすやす飛び越えてしまうのが松岡圭祐のすごいところ。その並々ならぬ創作意欲と着眼点に、あらためて驚かされる。

 簡単にあらすじを紹介しよう。主人公のクム・アンサノは北朝鮮の警察組織である人民保安省の保安署員。ある日、彼は11年前に起こった凶悪事件の再調査を命じられる。郊外の一軒家で中年男性が殺され、一人娘が強姦されたその事件では、近くに住むイ・ベオクという男が逮捕されていた。ベオクと面会し、事件現場にも足を運んだアンサノは、過去の捜査のあまりのずさんさにショックを受ける。

 自白が得られず、証拠が揃わなくても、なんらかの理由をつけ被疑者を刑罰に処す。捜査はそれで終了だった。真相も犯人も追及しない。手柄を立てたところで見返りがないのだから、誰も現状を変えようとするはずがない。(本文より)

 それが多くの保安署員の本音だ。そんな厳しい状況の中、強姦被害者の女性チョヒを訪ねたアンサノは、あらためてベオクの無罪を確信。粘り強く捜査を続ける彼の前に、やがて真犯人と思われる男の存在が浮上する。事件の真相はどこにあるのか。いつしかアンサノは、個人レベルを超えた強大な力に翻弄されてゆくことになり……。

 本書の特徴はなんといっても、ページを繰る手が止まらないリーダビリティの高さだろう。北朝鮮が舞台の警察小説、と聞くととっつきにくい印象を受けるが、心配は一切無用。真相を追い求めるがゆえに上司と対立し、孤立してゆく警察官というアンサノのキャラクター造型はエンターテインメントの王道で、日本の読者にも共感を呼ぶものだ。夫に代わって家計を支える妻、難しい年頃の娘との微妙な距離感も、人間ドラマに絶妙な奥行きを与えている。

 その一方で、北朝鮮ならではの事情がストーリーを大きく左右してゆく。党の力が絶対であるこの国では、人びとは互いに監視し合い、足を引っ張り合う。不正がすみずみまで入りこみ、賄賂なしでは何一つ物事は動かない。その大きな要因となっているのが、タイトルにある「出身成分」の存在だ。

 出身成分とは住民登録上の区分で、父親の経歴によって国民は「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の3つに分けられる。核心階層があらゆる面で優遇されるのに対し、動揺階層は首都・平壌に足を踏み入れることができず、最下層の敵対階層になると高等教育に進むことも許されない。

 党に逆らったり、罪を犯して逮捕されたりしたら、本人のみならず家族までもが出身成分のランクを下げられてしまう。その恐怖感が国民から自由を奪っているのだ。父親がある容疑で収監されているアンサノは、この残酷なシステムを前に苦悩する。平等であるべき社会主義国家で、なぜこんな差別がまかりとおっているのか? アンサノの捜査は事件の意外な真相とともに、社会体制の矛盾をもえぐりだしてゆく。

 今日の北朝鮮のリアルをあますところなく描いた力作『出身成分』。しかしそこに横たわっているのは、極めて普遍的なテーマかもしれない。

 不正がはびこる北朝鮮に絶望したアンサノに、ある上官はこう告げる。「どの国でも同じだ」と。確かに程度の差こそあれ、アンサノを取りまく人びとの弱さやずるさ、権力の冷酷さはどんな国にも存在するものだろう。絶望が社会を覆った時、わたしたちはアンサノのようにまっすぐに生きられるだろうか? この物語は鋭くそう問いかける。社会派とエンターテインメントを融合させた松岡圭祐の新たな挑戦を、決して見逃してはならない。

文=朝宮運河