佐世保の悲劇から15年―被害者家族の再生の物語

社会

公開日:2019/7/15

『僕とぼく 妹の命が奪われた「あの日」から』(川名壮志/新潮社)

 2004年、長崎県で起こった「佐世保小6女児同級生殺害事件」は日本中を驚かせた。当時小学校6年生だった女児が、同級生をカッターナイフで刺殺したショッキングな事実は、マスコミでも大きく取り上げられた。殺意の背景にあったネット上のトラブルも含め、メディアはさまざまな切り口で憶測を報じることとなる。そして、心ない世論を招いた後、事件はだんだん忘れ去られていった。

 しかし、被害者遺族は事件を忘れることなどできない。被害者となった女児には、2人の兄がいた。『僕とぼく 妹の命が奪われた「あの日」から』(川名壮志/新潮社)は2人が妹の思い出と、事件の後に訪れた悲しみの日々を語ったノンフィクションである。ここには、「被害者A」や「加害者B」といった記号的な報道では伝わらない、痛みと再生の物語が綴られている。

 著者の川名壮志氏は被害者の父親が勤めていた新聞社の支局で、直属の部下だった人物である。川名氏は被害者遺族に10年以上もの取材を続け、2014年に『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)を発表した。本書は、被害者遺族のその先を、本人たちを語り部として描いていく。

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「僕」と「ぼく」は5歳違いの兄弟。そして、2人には妹の「さっちゃん」がいた。待望の女の子の誕生に、両親は大喜び。たちまち、さっちゃんは一家のアイドルとなる。社交的な性格の「僕」と、内向的な「ぼく」は接し方に違いこそあれ、さっちゃんを可愛がり、仲のいい兄妹として過ごしていた。しかし、家族に最初の大事件が訪れる。さっちゃんが小学校3年生のとき、母親が乳がんで他界してしまったのだ。長男の「僕」は母親のいなくなった家族に閉塞感を覚え、四国の国立大学に入学する。3人家族になってからは、仕事で忙しい父親の代わりに「ぼく」がさっちゃんの相手をする時間が多くなった。

 キャンパスライフを謳歌する「僕」。思春期を迎えつつあるさっちゃんがもうすぐ自分から離れていくだろうと予感しつつあった「ぼく」。母親譲りの明るさで、大勢の友達に囲まれていたさっちゃん。母親の死を乗り越えかけていた家族に、悲劇は再び降りかかった。

「僕」も「ぼく」も、それぞれに事件の責任を抱え込んでしまう。「僕」は自分が家を出たことで、さっちゃんを守れなかったのではないかと悔やむ。「ぼく」は加害者少女とさっちゃんのトラブルを事前に相談されていた。しかし、「ぼく」は「よくあること」と考えて深刻に向き合わなかった。そもそも、人に好かれる性格のさっちゃんが、誰かから強い憎しみを持たれるなど想像もしていなかったのである。

「僕」の生活はすさむ。ギャンブルに依存し、大学もサボりがちとなった。心理カウンセラーという夢も、妹が殺害された後では無意味にしか思えなかった。卒業後、始めた仕事も決して健全とはいえない内容。それでも、喪失感を埋めるように「僕」は仕事にのめりこんでいった。「ぼく」は高校に入学するも、教室に入れなくなって一学期のうちに退学してしまう。成績のいい優等生だった「ぼく」にとって、初めての挫折だった。

 加害者は罪を償い、更正して再び社会に戻ってくる。しかし、被害者遺族の悲しみは消えない。彼らはどんなに辛い思いをして、世間から面白おかしく書きたてられても自力で状況を克服しなくてはならないのだ。

 現在の「僕」と「ぼく」がどのように人生を立て直し、自分の足で歩み始めているかはぜひ本書で確認してほしい。ただ、ひとつ言えるのは、彼らは加害者への怒りや憎しみにはもうとらわれていないということだ。加害者への思いは、新しい人生を踏み出すうえでの足かせになってしまう。本書は、彼らがどうやって未来を見据えるまでの境地に達したのかを、繊細な筆致で伝えている。

文=石塚就一