自ら名乗った「おかま」の衣を脱ぎ捨て、なまものとして生きる。少年アヤの最新エッセイ

文芸・カルチャー

2019/7/21

『なまものを生きる』(少年アヤ/双葉社)

 つつがなく過ぎていく私達の日常には、ときどき小さなほころびが見える瞬間がある。友人がちょっとしたウソをついていることが分かったり、寂しさや辛さを隠すために、自分が人前で無理におどけているのに気づいたり。

 ふつう人は、そうした違和感には気づかないフリをして生きているのだが(そのほうが楽だから)、そこで立ち止まり、真剣に考え込んでしまう人もいる。エッセイストの少年アヤさんは、きっとそんな人だ。

 その新刊の『なまものを生きる』(双葉社)は、アヤさんが半ば自覚的に選択した貧乏な日常を綴るエッセイだ。そこでもアヤさんは、いろんなことに気づいてしまう。

 貧乏なのにやたらとお金を使いたがることについて、「もしかするとそれは、社会と関わりたい、という衝動であり、感情だったのかも」と考える。部屋着のような服装でどこにでも外出し、バイトの応募にも行っていた自分に気づき、「ただ部屋の中で、だらしない格好のまま、壮大な夢を見ていたにすぎないんじゃないだろうか」とハッとする。友人と食べたマズい料理を「美味しい」と言ったことを気にし続け、「うそをほんとうにしようとしてた」と自分を責める。

 鋭い思考の刃を他者以上に自分へと向ける文章は、どこまでも真摯で誠実だ。アヤさんは貧乏な生活を選んだことを含め、自分が自罰的な行動をしてしまう理由にもどこかで気づいている。人一倍いろんなことに気づいてしまい、気にしてしまう人間なのに、「たぶんお金に向いてないんだよ。社会にも」と自ら言うように、“社会的に上手な生き方”をするのは下手。その苦しさは本書からも十二分に伝わってくるし、それでも誠実に生きようとする姿は、同じように生きるのに不器用な人達を癒やし、励ます力を持っている。

 過去には進んで自称していた「おかま」という衣を脱ぎ捨て、仕事や大事にしていたモノも捨て、「なまもの」として生きる――。そんな日常を綴った本書では、過去の著作に見られたような、露悪的と感じるほどあけすけな性欲やコンプレックスの描写は減った。そのぶん、人と人が触れ合うときのぬくもりがじんわりと伝わってくるようになった。

 誰もいないコンテナ埠頭の道路で寝転がり、「ぼくたちってしあわせだね」と友達と話す場面。桜の下で近所のおばあちゃんが丸くなり、ちぎれそうなくらい笑いながらハンカチの交換会をしているのを見て、「わー。戦争なんかしなきゃいいのに」と友達が言う場面。さらりと綴られる、「思うところがつねに一緒じゃ、友情なんてやってられない」という言葉。

 おどけなくても、飾らなくても、アヤさんの文章はやっぱり魅力的だ。入院中に行う尿道カテーテルへの恐怖から、尾道ラーメンの看板を「尿道ラーメン」と空見したり、職質してきた警官の若さとかわいさに気が動転し、去り際に「じゃあまた」と言っちゃったりするところも、相変わらず魅力的なのだけど。

文=古澤誠一郎