『天地明察』の冲方丁、新作はスパイもの!? 江戸を舞台に繰り広げられる諜報劇『剣樹抄』

文芸・カルチャー

2019/7/22

『剣樹抄』(冲方丁/文藝春秋)

 豪腕な事業家ほど臆病な性格をしているというし、人気の高い芸能人ほど腰が低いものだという。それならば、人として強ければ強いほど、その内面には致命的な弱さを隠し持っているのではないか──読了後、そういった人間の二面性に思いを馳せずにいられなくなるのが、『剣樹抄』(冲方丁/文藝春秋)という作品である。

 明暦3年の夏、市中で大工仕事の真似事を楽しむ美男の姿があった。水戸徳川光國、30歳。大火で焼けた江戸の再建に情熱を燃やす男だ。好奇心旺盛な光國だが、父・頼房から任されたとある務めには度肝を抜かれた。父によって寺に差し向けられた彼を待っていたのは、“子拾い豊後守”とあだ名される老中・阿部豊後守忠秋。光國は、彼が養育する3人の少年少女の能力に目を見張る。見たものをなんでも描き出せる“みざる”の巳助、誰の声でも真似られる“いわざる”のお鳩、恐ろしく遠くの声を聞き再現できる“きかざる”の亀一。光國が任されたのは、阿部豊後守、すなわち幕府に拾われた捨て子の中でも、特段の技能達者たちを育てる隠密組織──“拾人衆(じゅうにんしゅう)”の目付だったのである。

 拾人衆の喫緊の務めは、その年の正月に江戸を襲った大火が、反幕浪人の放火によるものだという流言の真否を問うことだ。みずからも災禍を経験した光國は、武家に出入りする浪人が持っていた絵地図「正雪絵図」の出所を探る。6年前、江戸城焼き討ちを企んだ由井正雪の名を冠したその絵地図には、大火の火元が記されていた。

 江戸に大きな喪失を与えた大火の原因が、人の手による放火だとしたら──憤激に駆られた光國は、絵地図を持つ浪人・秋山官兵衛を追ううちに、同じ獲物を待ち伏せていた少年に出会う。年のころ13、4、浮世絵の若衆のような好い顔立ちに、真っ黒い羽織を引っ掛けて、でかい棒きれを背負う無宿人の子だ。少年は、秋山を「火つけの人殺し」と呼ぶやいなや、背負った棒を真横に構え、どんな体術にもない異様な動きで打ちふせた。我流の修練で体得したらしい技を目の当たりにし、光國は、六維了助と名乗るその少年を連れ帰る。

 了助は、実父を旗本奴に殺されたのち、養い親である2人目の父にも大火で死なれ、3人目の父に等しい老人を秋山らの火つけで亡くし、復讐を誓ったそうだ。類稀なる剣才を持った了助は、光國に引き留められて、密偵となるべく養育された拾人衆の子らとともに、江戸の各所に潜り込む。一方で光國は、了助との邂逅に、人智を超えたものの存在を感じていた。了助の実父の死と光國のあいだには、光國が決して口にできない因果があったのだ──。

 剣樹とは、枝葉が刀剣でできている地獄の木のことだ。現世においては武士の誇り、大切なものを守るためにあるその刃が、地獄では人々を責め苦しめるものとなる。思えば人間のみならず、すべてのものに、そのような二面性が備わっているのかもしれない。人の暮らしになくてはならず、しかし命を奪いもする炎。快活な男が抱える心の闇、愛する肉親をこそ憎む胸の内、涼しい顔の下に潜む激情、喉から手が出るほど欲しがりながらも、失くすことを恐れて結べない絆。明暦の世でも令和の世でも、人の悩みに変わるところはない。だからこそ、この物語に描き出される人々の姿は、読み手の胸を強く打つ。

『天地明察』『光圀伝』(ともにKADOKAWA)の冲方丁による新感覚の大江戸諜報劇、上記で紹介した内容は、まだほんの序章でしかない。敵手との因縁、隠密少年たちの本領が明らかになるのは、ここからだ。そして、小気味好く綴られる波瀾万丈な物語の中に、読み手は誰でも、自分と同じ悩みを抱える者を見つけるだろう。

文=三田ゆき