芥川賞作家・今村夏子――『むらさきのスカートの女』と、彼女を執拗に観察し続ける〈わたし〉。狂気を孕んでいるのはどっち?

文芸・カルチャー

2019/7/28

『むらさきのスカートの女』(今村夏子/朝日新聞出版)

 学生時代、最寄り駅のホームにはいつも、伝線した白タイツを穿いている女性がいた。卒業して数年が経ち、久しぶりに訪れたときにも変わらず見かけて、驚いたことがある。芥川賞を受賞した『むらさきのスカートの女』(今村夏子/朝日新聞出版)は、そんな、多くの人が経験する“地元でのちょっと変わった人の目撃談”を起点に書かれた小説だ。ただし、今村夏子作品の常として、語られる対象よりも、語る視点人物のほうが、えもいわれぬ歪みを抱えているから、ぞわぞわする。

 決して若くはなく、肩まで伸びた黒髪はパサパサしていて、いつもむらさきのスカートを穿いている彼女は、「一日に二回見れば良いことがあり、三回見ると不幸になる」とジンクス化され、ジャンケンに負けた子供たちには罰ゲームに利用され、商店街の誰もが知っている存在だ。

〈わたし〉も例外ではないどころか、見かければいつも観察する。というか、〈一週間に一度くらいの割合で、商店街のパン屋にクリームパンを買いに行く〉とか〈最後のひと口に時間をかけるタイプ〉とか、見すぎでは? というくらい詳しい。人混みをすり抜けることに長けた彼女に、肉屋のショーケースを壊すほどの勢いでわざわざぶつかりに行ったこともある、という描写も不穏だし、自宅をつきとめ、不定期で働く彼女の生活スタイルも把握していることがわかると、だんだん薄気味悪くなっている。

〈常に観察しているわけではない〉というが、明らかに常軌を逸している。しかも女と友達になるため、求人情報誌を仕込んで自分の職場に就職させる。なんだ、働いていたのか、とほっとするが、働いているのにどうしてそんなに四六時中彼女を追い掛けまわしているのだ、と考えるとさらにぞわぞわする。

 念願かなって同じ職場に女がやってきても、〈わたし〉はひたすら観察し続けるだけ。友達になれる絶好のタイミングを探っているのかもしれないが、ここぞというタイミングは語られるなかにもたくさんあった。

〈わたし〉はいったい何を待っているのだろう。疑いながら読み進めていくと、仕事を得て、社交性と自信を身につけた〈むらさきのスカートの女〉が存外、凡庸なそこらへんにいる普通の人だということに気づく。おかしいのはむしろ、異様なまでの執念で彼女を追い続ける〈わたし〉のほうだ。

 だが、〈わたし〉は〈むらさきのスカートの女〉のように誰からも注目されているわけじゃない。狂気と凡庸の境目が、だんだんわからなくなっていく。やがて、ようやく訪れた友達になれる瞬間、読者は世界の反転を見る。

〈わたし〉の望んでいた、友達という純度の高い関係は、たぶん、誰しも憧れたことのある美しさを孕んでいる。薄気味悪く、たまらなくぞわぞわする〈わたし〉の内側に通じるものを、読者である〈わたし〉たちも抱いている。気づきたくないのに、触れたくなる。そんな紙一重の世界をいつだって暴いてくれるから、今村夏子さんの作品を読むのは、やめられない。

文=立花もも