まるでおばけのカタログ!「稲生物怪録」は妖怪好き必読の基本文献だ

文芸・カルチャー

2019/8/1

『稲生物怪録』(東雅夫:編・京極夏彦:訳/KADOKAWA)

 江戸時代中期、現在の広島県三次市でとんでもない騒動が巻き起こった。

 武士の少年、稲生平太郎の家に夜な夜な妖怪が現れて、1か月にわたって彼を脅かし続けたのだ。今日では一般に稲生物怪録(いのうもののけろく)と呼ばれるこの騒動は、人名や地名がはっきりと特定されていること(平太郎は実在の人物である)、事件のスケールが大きいこと、出現した妖怪のバリエーションが豊富で、数も多いことなどから、日本最大・最高の妖怪伝説ということができる。

 古くから人びとの関心を惹きつけており、巌谷小波、泉鏡花、稲垣足穂、水木しげるなど名だたる文豪・マンガ家たちも、稲生物怪録をモチーフにした作品を残してきた。

『稲生物怪録』(東雅夫:編・京極夏彦:訳/KADOKAWA)は、この出来事を知るうえで欠かせない基本文献を収録した画期的アンソロジーだ。

 稲生物怪録を記録した文献としては、平太郎本人が書き残したとされる「三次実録物語」と、平太郎の同僚だった武士がまとめた「稲生物怪録」の2つがあるが、本書はその両方を親しみやすい現代語訳で掲載。巻頭には妖怪変化の姿を生き生きととらえた「稲生物怪録絵巻」をカラーで全編再録している。コンパクトな文庫本ながら、かゆいところに手が届いた“稲生入門書”なのだ。

 物語自体はきわめてシンプルである。友人と肝試しに出かけたのをきっかけに、平太郎の家で怪異が巻き起こるようになる。妖怪たちの襲来は、7月1日から30日まで1か月にわたって続いた。最後の夜、平太郎の前についに妖怪変化のボス、山本五郎左衛門が出現。これまでの事情を説明し、仲間たちを引き連れて去ってゆく。

 この物語の読みどころは何といっても、描かれる怪異のバラエティの豊かさだ。一つ目が火のように光る化け物を皮切りに、逆さまになって移動する生首、目玉と指のある大きな石、戸口いっぱいに巨大な老婆の顔など、形も大きさもさまざまな妖怪たちが、次から次と現れるのだ。

 塩俵や高下駄が飛ぶといったユーモラスな怪異もある一方で、知人に化けた妖怪が目の前で自害する、という薄気味の悪いものもある。個人的に大好きなのは、3人の虚無僧がふわふわ宙に浮かんで笛を吹いていた(でも何も聞こえなかったらしい)という怪異。まったく意味が分からないが、なんだか憎めない。部屋の中に「星」が吹きこんでくる、というロマンチックな怪異にも意表を衝かれる。

 それにしてもこんなに面白い物語が、江戸中期の三次でどうして生まれたのだろう。平太郎少年の身に一体何が起こったのか。万一創作だとするなら、真の作者は誰なのだろうか。妖怪譚としてはもちろん、少年の一夏の成長物語としても魅力的な稲生物怪録を読みかえすたび、つくづく不思議な気分になる。

 ちなみに本書で「三次実録物語」を現代語訳しているのは、人気作家の京極夏彦。原典を踏襲しつつ、随所に“京極夏彦らしさ”が感じられる訳文になっているので、ファンなら必読必携である。

 2019年春、広島県三次市には「湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)」がオープン。この日本最大・最高の妖怪伝説に、あらためて注目が集まっている。今なお人びとを惹きつけてやまない稲生物怪録の世界、本書を入り口にぜひ触れてみていただきたい。

文=朝宮運河