30歳で「性別がない」と判明した著者がアラフィフという「思秋期」を迎えて考える手探りの人生設計

マンガ

公開日:2019/9/1

『30歳で「性別が、ない!」と判明した俺がアラフィフになってわかったこと。』(新井祥/ぶんか社)

 昭和時代は固定観念が強かったので、「男性なら(女性なら)このような人生を歩んでいく」というイメージが日本全体で共有されていた。それを疑うことなく、もしくはやむなく従いながら、人々は年を重ねていった。

 しかし平成も終わり令和時代を迎えた今、価値観が多様化し、それを受け入れる心の土壌がほんの少しずつ日本人に積みあがってきた。なによりSNSの普及によって、同じ価値観を持つ人々が場所や時間に制約されることなく共有し合える場が生まれた。これは時代の良い流れだと断言できる。

 ところが、そうなると別の問題も表面化する。たとえばセクシャルマイノリティ=セクマイ(性的少数者)のひとつ、インターセックス(中性)である人の生き方の“見本”がない、つまり「どのように自分が人生を歩んでいけばいいのか分からない」ということだ。インターセックスとは、身体の性が典型的とされる男性や女性の枠に定まらない人を指すといわれる。

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『30歳で「性別が、ない!」と判明した俺がアラフィフになってわかったこと。』(新井祥/ぶんか社)の著者である新井祥さんは、長らく自身がインターセックスであり男性でも女性でもない“中性”であることをカミングアウトしてきた。セクマイ界の先駆者として書籍を出すたび、講演を行うたび、同じセクマイの悩みを抱える人たちから共感を得てきたのだ。そして本書では、冒頭で新たにこのような悩みを打ち明けている。

ゲイ・レズビアン・バイを公言して活動してる人もすごく少ないこの国だから
結婚も病気も人生設計もすべてが手さぐり

 自身が50代を迎えるアラフィフになったからこそ、中年期である「思秋期」を迎えて、どのように年齢を重ねていくべきか日々迷うことが多いそうだ。本書は、年齢にともなう変化や、同棲するパートナー・こう君とともに生きるアレコレをつづったコミックエッセイ。セクシャルマイノリティ特有の悩みを新井さん独自の目線で切り取り、軽快なトーンで迷いながら答えを見つけ出そうとする日常を細やかに描いている。

■青年としての記憶がないのに30歳からいきなり男性に生まれ変わって…

 新井さんは30歳まで女性として生きて、結婚もしていた。しかし染色体検査でインターセックスと判明して以降、縮胸手術を受けて対外的には男性として生きてきた。つまり30歳以降、男性である青年時代の記憶もないのに、いきなり男性に生まれ変わって生きてきたのだ。そして年を重ねた今は女性としての記憶も遠ざかってきた。想像もできない変化が日々新井さんに訪れているのだろう。

 また、一般的な人生ならば、30代以降は結婚をして子育てをして、あらゆるライフイベントが待っている。しかしセクシャルマイノリティの人はそれを経験することはほとんどない。

 本書ではとても親しみやすい絵で、こう君との軽妙なやり取りを見せながら、別の生き方もあったであろう新井さんの人生について思いを巡らす姿が描かれている。読み手が深刻にならず、共感しやすく、ふっと笑みがこぼれるワンシーンだが、同時に新井さんの胸中の複雑さも感じずにはいられない。

 本書はセクシャルマイノリティに関心を寄せるきっかけの1冊になりうるだろうし、彼らの日常が私たちにとってどれだけ容易に理解できないものか考えさせてくれる。

■トランスジェンダーが「トランスに疲れた」と嘆く理由

 もうひとつ、本書に登場するトランスジェンダーの相談者が「トランスに疲れました」と打ち明ける場面も印象深い。相談者は女性の外見でありながら、男性として生きようと努力してきた。周りの理解もあって職場で問題なく働いているようだが、性ホルモンが豊潤になるにつれ、女性的記号が目に見えて大きくなった。外見を男に保つ労力に疲れきった相談者は「女としていきたい」と考え始める反面、周りからの「今までは単なる思い込みだったのか?」という疑惑に耐えられないとも感じてしまう。

 新井さんは相談者に対して理解と共感を示しながら、的確なアドバイスを贈っている。もし自身の「性」について悩む人がいるならば、本書が彼らの悩みや孤独感を和らげるものになるのではないか。

 人は寄り添いながら生きていく生き物だ。しかし望まず少数派にいる人々の中には、誰からも理解されず、ひとり寂しい孤独を抱えて生きている人もいる。少なくとも昔の日本はそうだった。

 その状況を一変させたのが価値観の多様化であり、誰かと誰かのつながりを生み出せるSNSの登場だ。同じ悩みを抱える人同士が結びつき、意見を交換し、オープンに情報を発信し始めた。ほんの少しずつだが、世間がセクシャルマイノリティに対して理解を示し始めている。

 彼らが少数派から世間のひとつの“ノーマル”になることは、まだまだ難しいかもしれない。けれどもいまだ凝り固まった固定観念を持つ人を少しずつ変えることはできるはずだ。これは間違いなく時代の良い流れだと断言できる。

文=いのうえゆきひろ