悪魔と呼ばれたロシア人兵士が語る本音。部下の脳みそをかき集めてまで戦場で得たものは…

社会

公開日:2019/9/21

『愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった』(舟越美夏/河出書房新社)

 紛争地域のニュースを目にする時、私たちは悲惨な現場を想像して哀しみながらも、日本にいる自分は経験することがない出来事だと思っているだろう。だが、本当にそうだと言い切れるだろうか。『愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった』(舟越美夏/河出書房新社)を手に取ると、誰かの身に降り注いだ絶望的な危機は、もしかしたら自分の身にも降りかかる可能性があると思わされる。

 著者の舟越さんは、故郷の炭鉱が閉山した時に世界から見捨てられたと感じた体験を抱えながら、通信社の記者やジャーナリストとして世界中を周り活動し続けてきた女性。日本の報道のメインでは扱われない土地にも赴き、人が生きる上で必要な普遍的な答えを探しつつ人々の声を拾い上げてきた。

 人を殺す立場に追い込まれたロシア軍兵士や焼身抗議したチベット人少女…。舟越さんがこれまでに取材してきた人々は、私たちとは別の、特別な人のように思えるかもしれない。だが、彼らももともとは平凡な幸せを求めながら生きていた“普通の人”だった。彼らが語る“特別な”体験談は、人間と社会の真理を突いていく。

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 本書は、ただ人の苦悩や残酷さを綴るノンフィクションではなく、人間のたくましさや誰かを想う気持ちの強さを教えてくれる「愛の物語」でもあるのだ。7章にわたって紹介されている衝撃的な告白には、それを体験した人たちの覚悟が見える。闇の底を覗いた人は、いったいどんな絶望を経験し、また彼らはどんな愛を貫こうとしていたのだろうか。

■「戦場に戻るのはトイレに行くのと同じ」“悪魔”と呼ばれた元兵士の本音

 本稿で紹介するのは、チェチェン戦争でロシア連邦軍の特殊部隊「スペツナズ」の兵士として戦ったワジムという男性。情報収集や秘密工作、暗殺などを行うスペツナズは、家族をロシア軍に殺害された復讐のために自爆テロ予備軍として活動する女性たちを殺害することを重要な任務としていた。

 スペツナズは、夜明け前に大音量の音楽をかけながら装甲車でチェチェン独立派武装勢力の一味やそのシンパの民家を襲撃する。とらえたチェチェン人が口を割らない時は拷問。ワジムもチェチェン人の頭を金具で割ったり、処刑した遺体の顔と股間に爆薬をくくりつけ、地面に掘った穴の中で爆破したことがあるという。

 ワジムは、政治家たちが叫ぶ「民主主義」が自分の将来にどんな影響を及ぼすのか不安に思い、生きている理由を知りたいと考えスペツナズに入隊したという。命を懸ける価値がスペツナズにはあると信じ、チェチェン人に「悪魔」と呼ばれながらも、次々と殺人を決行する。戦場に戻ることはトイレに行くのと同じくらい自分にとっては生理的で、生きていくために必要なことだった。

“兵士は、命令の善悪を考えたり、疑問を口にしたりしてはならない。生き残りたいのであれば、感情を持ってはならない。”

 そう語るワジムという男は非常に冷酷に思えるかもしれない。だが、彼もまた戦争によって翻弄されたひとりだ。ワジムは敵の命を奪うことが祖国を守ることに繋がっていると考えていたが、上官が部下の死を悼もうとせず、事実と異なる報告を上層部にしていることに気づき、戦場にいる自分たちの命は上官の出世のために使われているだけではないのかと思い始めた。

 ワジムは、敵の司令官に頭を下げてまで仲間兵士の遺体を家族に返そうとし、戦場では部下の飛び散った脳みそと砕けた頭蓋骨をかき集めた。そんな経験を重ねていくうちに、敵だと思っていたチェチェン人の村を焼く意味が分からなくなり、除隊を決意する。

 だが、帰還兵は平和な社会に居場所がなかった。「人殺し」と呼ばれたり、戦地を経験した者にしか分からない「死の恐怖」に今でも苦しめられたりしている。ワジム自身は今でも「悪魔」と呼ばれていた当時の自分に誇りを抱いているが、自分がしてきたことは間違っていたのだろうか…と問いかけ続けている。

 本書を通じて知る「真実」は、国境という壁を越えて、私たちにも「生」と「死」の意味を投げかけている。

文=古川諭香