自由な世界にきらめく宝石のような物語――いしいしんじさんの3年ぶりの小説集『マリアさま』

文芸・カルチャー

公開日:2019/12/1

『マリアさま』(いしいしんじ/リトルモア)

 書店で新作を見つけると、つい本を手に取らずにはいられない作家が数名いる。そのうちの一人がいしいしんじさんだ。初めて読んだ彼の作品は、確か『ポーの話』だったと思う。彼の独特の世界観にすぐに引き込まれてファンになってしまった。いしいさんの物語には「作り物」感を感じない。現実世界では実際に起こりえないような出来事やストーリーも、私たちのすぐ身近に存在しているかのように感じさせる、そんな不思議な感覚を与えてくれる。私にとってはそのような存在なのだ。

 本書『マリアさま』(いしいしんじ/リトルモア)は、2000~2018年の間に執筆された短編や掌篇の中から厳選された27篇が集められたもの。どの物語にも共通しているのは「新生」をテーマにしていることだ。物語の舞台や登場人物、時代背景などはまったく異なるが、読む者に希望を与えてくれる一冊となっている。

 個人的に印象深かった物語が「土」だった。舞台となるのはイギリスの高級住宅地ノッティングヒル。かつてダブルスのパートナーとして交流していたナイルズの自宅を訪れるシーンから始まる。久しぶりに会ったかつてのパートナーは重病で死にかけており、まるで「指でつらぬけそうなくらいすきとおった頬」をしていた。ナイルズによると、病状はどうやら「体から土がわいてくる」ことらしい。土の状態は天気によっても変化し、雨が続けば湿った土、日照りが続けたカラカラに乾いた土が出てくるというのだ。病院で検査をしても原因はまったく不明でどうすることもできない。部屋で2人が話していると弟のティムがお茶を持って入ってきて、ナイルズの体からわき出た土を新聞紙と手を使って集め外へと運び出す。

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 ティムは土をただ捨てていたわけではなかった。庭にはナイルズの体からわき出たと思しき土が敷き詰められていて、そばには植えられるのを待つバラの苗木が並んでいる。ティムは土に穴を開け、苗木を植えていく。彼にとってはこれらはただの土ではなく、「兄の体」「兄の声」なのだろう。いずれナイルズはこの世を去るが、弟のティムが兄のことを想って小さな土の声を聞き取ろうとする限り、ナイルズは死を恐れる必要がないのだ。ただの土くれになってしまっても、花に養分を与えて美しい花を咲かせることができるから。読後、なんと美しい物語だろうと思った。死んだ後も自分が何かの役に立つと知ることで、人はどれだけ救われるのだろう。

 また、「自然と、きこえてくる音」は、元録音技師のケンチさんがあらゆる音を拾いに行く物語となっている。炭火で焼かれるうなぎの音、公園で遊ぶこどもたちの唄、水鳥の鳴き声、路面電車の軋み。「わたし」はある日ケンチさんの音拾いについていき、ケンチさんが「わたし」について何も聞いてこないことを不思議に思うのだ。するとケンチさんの答えは、

「俺は、自然と、きこえてくるもんだけでじゅうぶんや」
「わざわざこじあけたり、つかみあげたりは趣味にあわん。自然と、むこうからきこえてくるもんだけで、だいたいのほんとうは、わかるもんやで」

 というものだった。

 実は聴力が弱く、補聴器をはめていたケンチさん。そんな彼の言葉にハッとさせられた。この世には実にたくさんの音が溢れている。自然界の音だけでなく、人間の声、人間が作り出す音など、音のない世界は想像できないだろう。しかし、果たして「それらの音をちゃんと聞いていたのだろうか」と自問自答してしまった。風の音、夕方のチャイムの音、遠くの道路を走る車の音などを少し意識するだけで、ありふれた日常が少し違って見えるから面白い。

 いしいさんの物語では、その設定に驚かされることが多い。奇をてらうようでありながら、すぐ身近にも存在しているような、しかしやはり実際には起こりえない物語。だからこそ、こんなにも彼の自由な世界に引き込まれるのだろうか。「新生」をテーマにした本書には、一つ一つ大切に読みたい珠玉の物語が詰め込まれている。人によって好みが分かれるだろうから、ぜひ自身のお気に入りの物語を見つけてみてほしい。一つの物語が短いので、秋の夜長にベッドの中で読み進めるのもおすすめだ。

文=トキタリコ