公文書はなぜいつも隠されるのか? 意図的ではなく段ボール箱から見つからない場合も!?

社会

公開日:2019/12/23

『国家と記録 政府はなぜ公文書を隠すのか?』(瀬畑源/集英社)

 用済みの電子メールやチャットの内容は、いったいいつまで保存しておくべきなのだろうか? 会社でやりとりした仕事上の記録なら一定期間保存で決まりだろう。だが、友人とのたわいもないやり取りは、そもそも保存や管理しようという意識がない。
 
 さて、文書が政治にかかわるもの、つまり公文書となると、個人の意思で勝手に捨てることはできない。公で働く人には、法律や条例の決定までに取り交わされる文書を保存管理する義務があり、国民が公開請求をしたら、スムーズに開示をしなくてはならないからだ。もっとも、「国家安全上の機密にかかわるので出せません」とか、「墨で部分的に塗り潰したものなら見てもいい」など、要求に100%応じなくてもいいことにはなっている。
 
『国家と記録 政府はなぜ公文書を隠すのか?』(瀬畑源/集英社)は歴史研究者である著者が、日本は公文書管理について「もっと頑張るべき」と現状の公文書管理の問題点を指摘する1冊。でもなぜ法律家ではなく、歴史家がそう提言するのだろう。歴史、特に近現代史を研究しようと思うと法律がどのように制定されたのかを知る必要があり、頻繁に官公庁に過去の情報公開請求をするが、思うように資料が出てこないため非常に困る…。なぜこのようなことになるのか、と本業の合間に考えたことがきっかけだという。
 
 ここでは、本書で挙げられている問題点から3つを取り上げたい。最近の政治ニュースなども頭の隅に置きながら、へえ~と思いながら読んでいただけると幸いだ。

(1)「どうしてそう決まったのか」「何を選ばなかったのか」の文書は捨てられる

 日本は現代的民主国家だ。政策や法律が決まった時の「結果」は当然文書として残される。だが、それしか残っていないことが多々ある。つまり、どのように決まったのかという経緯を残そうという意識が薄いのだ。現場の人は、物事が決まったらそれまでの経過を描いた資料は捨ててしまう。裁判所でも、判決は残すが裁判記録はポイだそう。

 とはいっても、大きな事件や、再審請求があるかもしれない事件は、現場の判断で残しているという。しかし、判断基準に明確なものは存在しないため、何を何年残すかなどはそこに携わった人次第だという。

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 公文書は、現場で働いている人にとっては事務資料でも、未来の人間にとっては歴史資料となる。立法・行政に携わる人には、こうした意識を高め、まず管理保存の基準作りをお願いしたい。

(2)人員的余裕がない

 公文書の問題を記事にすると、政治家や官僚を批判する内容になりがちだ。だが、現場で働く人にも言い分はあるということをお伝えしたい。言い分の大きな要因、それは「人員不足」だ。

 現在、公開請求への対応は、官庁職員が普段の業務外の時間に、資料探しから公開準備までを行っている。資料が書庫にファイリングされていればまだ探しやすいかもしれないが、山積みの段ボール箱の中から探すこともあるらしい。さらに、どの程度の範囲で公開するかを決めるのも、担当した職員に委ねられている。これでは、開示までの時間と労力がかかる上に、その範囲が不適切なケースがあるとしてもやむを得ない。

(3)電子文書への対応が決まっていない

 上述の問題にもかかわるが、現在の情報公開法は古いので、電子化に対応していない。情報整理の電子化の前に、電子メールの取り扱いについても定められていないのが現状だ。たとえば、一斉メールや省庁宛メールは公文書扱いにするとか、ルールを決めねばならないだろう。自宅や個人の携帯から送ったメールやLINEメッセージは? …臨機応変なルール作りが必要となるだろう。

 著者は、こうした問題点を挙げつつも、最後にこう述べる。

“私はたくさん間違いをする人間なので、人の間違いに結構寛容なんです(笑)。(中略)結果に対しては適度に責任をとらなきゃいけないけれども、「それを糧にして同じことを繰り返さない」とか「そこから学んで何か変える」ということを重視しています。でも今の世の中は必ずしもそうではない。懲罰感情が先に立ってしまう。”

 そうだ、日本全体が「失敗なんて何ともないよ」という空気ならいいのだ。もしそうであれば、国会で「これは個人的なメモだから公文書には当たらない」などという議論が延々と続くことはなくなり、もっと大切な議論に時間をあてることができるだろう。こういった動きが広がれば、私たちの会社の仕事だってもっと生産的になるだろうし、世の中全体が居心地よいものになると思うんだけど…。いかがだろうか?

文=奥みんす