KOまでの過程は綿密な「作業」。勝ち筋を的確にデザインする最強ボクサー・井上尚弥の凄み

スポーツ・科学

2020/1/1

『勝ちスイッチ』(井上尚弥/秀和システム)

 ボクシングの書物に付き物のハングリーな物語は僕には存在しない。
 僕には天才と呼ばれるほどのセンスがない。
 リングに命はかけない。

 これは、プロボクサー・井上尚弥の著書『勝ちスイッチ』(秀和システム)にある文章だ。

 プロ通算戦績は19戦19勝16KO。16戦目での世界3階級制覇は国内最速。米国のボクシング誌『ザ・リング』のランキングでは、大きく体格の勝るヘビー級やミドル級の実力者を差し置き、世界中の全階級のボクサーで3位の評価…。

“モンスター”“日本ボクシング史上最高傑作”との異名も納得の経歴だが、『勝ちスイッチ』を読むと、井上尚弥は努力を重ねることで強くなったボクサーだと分かる。『あしたのジョー』のように生い立ちが特異なわけでもなく、気迫や才能で勝ってきたタイプでもない。ボクシングに全力で取り組みながら、家族も大切にする。そんな考え方も、普通の人が読んで共感できるものだ。

 であるがゆえ、「強い心の作り方」や「結果の出る生き方」を本人が綴った『勝ちスイッチ』は、ボクシングの知識がない読者にも非常に学びの多い内容といえるだろう。

 たとえば、試合の勝ち方。

 井上尚弥は、試合に勝つまでの過程を「勝利をデザインする作業」と呼んでいる。圧倒的なKO率を誇り、ガードの上からでも相手をなぎ倒すパンチ力を持つ彼だが、一撃必殺のKOパンチを当てるまでには、「自分のペースを作る」「相手の長所を消す」「相手を弱らせる」といった作業を綿密に行っているそうだ。

 その過程で井上尚弥は、相手との距離をセンチ~ミリ単位で測る。わざとガードの上からパンチを打たせ、その威力、スピード、タイミングを測る。ときには相手の呼吸までを読み、その呼吸・鼓動に合わせてパンチを繰り出すこともあるという。五感をフル活用し、相手の情報をリング上で収集する作業は、本人の言葉を借りると「全身からレーダーを照射して相手をロックオンするイメージ」だ。

 井上尚弥が見せるド派手なKO劇の裏には、そうした前段階の作業があり、その作業は勝利を目指してデザインされている。たとえボクシングをしていなくても、「仕事で大きな結果を残したい」と思っている人なら、本書の考え方は非常に参考になるはずだ。

 なお井上尚弥は、全ての基礎技術が圧倒的に高く、あらゆるパンチで相手をノックアウトできるオールラウンダーゆえ、「パンチ力以外で一体何が凄いのか?」が素人目には見えづらいボクサーでもあった。だが、本書を読んでから井上尚弥の試合を見ると、その強さの秘密が少し分かるようになった。

 リング上の彼は常に鋭い眼光で相手を見つめ、打ち合いになっても、試合が優勢になっても、感情に大きなブレが見られない。足を使い、多様なパンチで相手のガードを崩しながら、一瞬のスキを見つけて重い一発を的確に打ち込んでいく。KOまでの過程を「作業」と呼んでしまう男の凄みが、そこには漂っていた。

文=古澤誠一郎