弱いもの、忘れられたものたちを見つめる清らかな瞳
公開日:2012/5/27
五七調の詩というのは、幼稚になりがちの傾向があると私は思う。
ひとつには、言葉を十分に吟味しなくとも、思いついた単語をあてはめていけばあるリズムが生まれてしまうからだろう。まだ道なかばなのに、「できあがった」気になってしまうわけだ。
たとえば俳句や短歌は、その「短さ」においてこの落とし穴を避けている。あふれかえる脳内の言葉を、凝縮に凝縮を重ねなければ、形式を達成することができない仕組みになっているのである。
だが、金子みすゞの作品はその多くが七五調で作成されているにもかかわらず、稚拙さ、安っぽさから見事に抜け出ている。これは画期的なことだ。天才詩人といわれる根拠はそこにも多くあると私は踏んでいる。
もちろん彼女はこの上もなく厳しいふるいに言葉をかけているのだ。なにげなく使う「日頃」の言葉でありながら、それはあまたの選択肢の中から針の穴のように狭い網の目をくぐり抜けてきているに違いない。だからその言葉は、ふくよかだ。たおやかで、けざかく、やさしい。情感にあふれている。
さらに、彼女が詩作をする時に見つめているものの姿も忘れてはならない。
注意深く読めばすぐに気づくことだが、彼女が描いているのは、弱いもの、忘れられたもの、隠れたもの、居所のないものたちだ。
そうしたマイノリティたちへの彼女の眼差しが、私たちを驚かせ、感動させる。
その意味で、金子みすゞと一番近い現代の詩人は、中島みゆきではないだろうか。
視点の転換が読むものをハッとさせる
柔らかな幻想性もみすゞのつきせぬ魅力だ