自分の文章が単調で退屈…悩める人に朗報! 文末表現が豊かになる画期的表現法

文芸・カルチャー

公開日:2020/2/14

『書くための文章読本』(瀬戸賢一/集英社インターナショナル)

 日本語ってむずかしい。文章を書いていると、いつも推敲に時間がかかってしまう。特に悩ましいのは、文末表現だ。気を抜くと「~だ」「~である」という似たような表現が続き、どこかぶっきらぼうで、単調な文章になる。いい文章って何なのだろう? そう考えながらも、結局「なんとなく」で文末を決めてしまう…。
 
 文末表現の悩みは、どうやら我々一般庶民だけのものではないようだ。紹介する『書くための文章読本』(瀬戸賢一/集英社インターナショナル)によれば、あの谷崎潤一郎でさえ、『文章読本』の中で、「センテンスの終わりの音の変化が乏しい」「結局は『る』止めか『た』止めになってしまう」とこぼしていたそう。では、どうすれば豊かな文末表現を手に入れられるのか。本書は、数々の名文からその法則を導き出し、私たちも使えるような形で解説してくれる。

■「デス・マス調」と「ダ・デアル調」は混在してもいい?

 学校の授業で、文章を書くときに「デス・マス調(敬体)」と「ダ・デアル調(常体)」は分けなさい、と習った人は多いはず。だが、必ずしも守る必要はないそうだ。むしろ、使い方次第で単調な文末を打ち破る力を持っているという。少し長くなるが、一例を挙げてみたい。

以前、旅先のホテルでテレビを見ていたら、香港か台湾かのお祭りの様子が映されていました。大きな張り子の竜が人並みのうえを流れてゆく。その竜の目の前に白い玉が揺れている。竜が玉を追いかける仕種はえんえんと続くのですが、玉があるから見物人はあきない。(辰濃和男『文章の書き方』、岩波新書)

 敬体と常体を効果的に使い分けている。ポイントは文章の「主体性」だ。「映されていました」と敬体を使っているとき、視点はテレビの外側にある。それに対して、「流れてゆく」「揺れている」と常体になるときは、お祭りの様子を観察する視点がテレビの中に移動しているのだ。後者のほうが「主体性」が高まっていて、描写に臨場感が増しているのがわかるだろう。

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■問いかけの表現で文章に緩急をつける「問答法」

 問答法、このレトリックに救われているという書き手は多いのではないだろうか。まさに、次の文のように、対話的な表現を取り入れることで、文末表現を工夫することができる。たいていは、書き手から読み手への問いかけだが、受け手は自分自身であってもいい。

衛星放送に出ることをあれほど躊躇した私が、わずか一年足らずのキャスター経験にもかかわらず、地上波の番組でも通用するなどと、なぜ思ったのだろうか。キャスターという仕事を甘く考えていたとしか思えない。(国谷裕子『キャスターという仕事』、岩波新書)

 数ある文章本の中でも、文末表現に注目して特化している本書。言語学者である著者の分析を読んでいると、「文章にはこんなにも可能性があったのか」と驚くばかりだ。仕事やSNSでよく文章を書くという人は、ぜひ参考にしてみてほしい。ちなみに、筆者は今回の記事を「2回連続で同じ文末を使わない」というルールで書いてみたのですが、どうでしょう?

文=中川凌(@ryo_nakagawa_7