自らも認知症になった専門医が語る認知症のすべて。身近な人にできるケアとは

暮らし

公開日:2020/2/16

『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(長谷川和夫、猪熊律子/KADOKAWA)

 人生百年時代といわれる日本において、認知症はもはや誰でもなりうる病気。厚生労働省によれば、団塊の世代が全員75歳以上を迎える2025年には、高齢者の5人に1人が認知症になると推計されている。

『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(長谷川和夫、猪熊律子/KADOKAWA)は、“100から7を順番に引いてください”といった認知機能検査「長谷川式認知症スケール」の生みの親である認知症医療の第一人者の長谷川和夫氏が、認知症の当事者になった今、何を思い、どう感じているかを綴った一冊。

 医師として、患者として、認知症に向き合ってきた長谷川氏の言葉から、認知症の本質が見えてくる。

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自分が認知症になってみて、わかったこと

 認知症とは「暮らしの障害」だと長谷川氏はいう。認知症になるとご飯を食べて、掃除や洗濯をして、出かける準備をして、という当たり前のことができなくなってくる。そんな人に対し、家族や周囲の人間は、この人は認知症だから…と一線を引いて対応してしまいがちだ。

 しかし認知症になったからといって、突然人が変わるわけではない。長谷川氏自身が認知症になって感じたことは、たとえ認知症の症状が進んでしまっても、ここにいるのは「何もわからなくなった人」ではなく、生まれた時から今日まで生きてきた続きの自分だという。

 また、認知症は固定されたものではないとも語る。長谷川氏は、朝目覚めた時は調子がよく、夕方になるとだんだん疲れてきて混乱がひどくなるのだそうだ。1日の中でも調子のいい時と悪い時があるということは、自分が認知症になって初めて知った事実だという。

「認知症になったらおしまい」「どうせなにもわからない」と特別扱いをしたり、存在を無視したりすることはかえって症状を悪化させることになりかねない。認知症は家族や周囲の接し方次第で、よくも悪くもなるということを知ってほしいと長谷川氏は訴える。

待つ、そして聴くこと。その人らしさを大切に

 認知症の人と接するとき、すぐに答えが返ってこないことに耐えかねて「こうしましょうね」「こうしたらどうですか」と一方的に話を進めてしまうこともあるだろう。しかし認知症患者自身も、うまく話せない自分に不便さやもどかしさを感じ、それに耐えているのだと長谷川氏はいう。

“話をしていることは認知症の人にも聞こえているし、悪口をいわれたり、ばかにされたりしたときの嫌な思いや感情は深く残ります。だから話をするときは注意を払ってほしいと思います。認知症の人が何もいわないのは、必ずしもわかっていないからではないのです。”

 認知症患者への接し方として、長谷川氏が長年大切にしてきたのが「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」という方法。その人らしさを尊重し、その人の立場に立ってケアをすることだ。と、言葉でいうのは簡単だが、これが家族など身近な人間になるとなかなか実行できないもの。元々気を遣わない間柄だからこそ、ぞんざいに扱ってしまうこともある。

 それでも認知症の人と同じ目線の高さに立って、何を話すか注意深く聴いてほしいと長谷川氏はいう。この場合「聴く」ということは「待つ」ということ。その人が話すまで待ち、じっくり向き合うことで相手は安心できるという。

 本書をまとめた読売新聞社編集委員猪熊律子さんのあとがきに、同じ認知症の人でも、一緒に暮らす家族や周囲の環境によって「手がかかる問題の多い人」になったり、「普通と違ったところはあるけど個性的な人」になったりする、とあった。

 これからの時代、認知症は誰もが向き合うことになるものであり、むやみに怖がる必要はないのかもしれない。日本人に向けられた長谷川氏の遺言ともいえる本書から、認知症との向き合い方を探ってほしい。

文=齋藤久美子