『裁判官も人である』――出世のために上司への忖度は当たり前!? 前例主義、倫理観で揺れ動く、裁判官の重圧とは

暮らし

公開日:2020/3/10

『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(岩瀬達哉/講談社)

 人生で「できれば行きたくない場所」はいろいろあるが、「裁判所」は確実に上位にランクインする場所だ。訴えるのも訴えられるのも勘弁してもらいたい、できれば争い事に巻き込まれないで穏やかに過ごしたいという人がほとんどだろうし、自分や身近な人が犯罪者となって裁かれる、または被害者になるなんてことも考えたくない。傍聴席が好きな方もいるが、わざわざ誰かの辛いことを聞いて辛い思いをしたくない私は行こうと思ったことがない。しかし2009年からは一般市民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まっているので、以前よりも行く確率が高くなっているのも事実だ。

 とはいうものの、裁判というのは公正に行われるものだから、万が一にも裁判で裁かれることがあったとしても、悪いことをしていなければ大丈夫――しかし『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(岩瀬達哉/講談社)を読むと、その考えはグラグラと揺さぶられる。本を読んでいる間は何度もため息をつき、声が出るほど驚いたところもある。怒りの感情も噴き出したし、無力感にも苛まれた。

 ここで裁判所の「立ち位置」についておさらいしておきたい。小学校の社会科で習う「三権分立」、正しく覚えておられるだろうか?(総理大臣でも間違えたことがあるので、念の為です)

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 国の権力には、法律を定める「立法権」のある国会、国会で決められた法律や予算に沿った政策を行う「行政権」のある内閣、そして争い事や犯罪者を憲法、法律で裁く「司法権」のある裁判所の「三権」がある。各々が権限を持ちながら、一か所に権力が集中しないよう、互いに関係しながら抑制、均衡を保つのが「三権分立」だ。この三権分立が正しく行われているのかどうか、しっかりと監視することが国民の役割である。これはロックやモンテスキューらによって提唱された、近代民主政治の基本原理だ。

 裁判所には国会や内閣が作った法律が憲法に反していないかチェックする「憲法の番人」の役割がある。その一方で、国会は裁判官を弾劾裁判にかけることができ、天皇が最高裁判所長官と裁判官の任命権を握っている。これによって権力の濫用を防ぎ、バランスを取っているのだ。

 そう習ったはずだった。

 いや実際その役割はあるのだが、本書を読むと三権のひとつというよりは「国のいち機関」のような裁判所と、“いちサラリーマン”でしかない裁判官の実態が次々と明らかになっていく。黒い法衣に身を包んだ裁判官一人ひとりに良心や法解釈があるが、上司への忖度や前例主義、組織全体の論理との間で揺れ動く。組織を守るため、予算を取るため、クビにならないため……しかしひとたび組織の意に染まない判決を下したり行動を起こすと、上から睨まれて出世コースから外され、昇進が止まったり地方へ飛ばされるなど徹底的に干されていく。こうした公正とは程遠い内部の陰湿な実情を知ると、本当にため息しか出ない(死刑執行の際のリアルな描写には息が詰まった……)。また冤罪で人生が変わってしまった人たちの顛末は、ページをめくるたびに背筋に冷たいものが走った。裁判員制度の実情には怒りも感じた。そして法務省の検事長定年延長が問題となっている今、本書の掉尾「政府と司法の暗闘」もしっかりと読み込んでおきたい。

 決して楽しい本ではない。読後は腹の底に重たいものを感じることを覚悟していただきたい。しかし粘り強く丁寧な取材が積み重ねられた本書は、読む人に必ずや新たな視点を授けてくれる。

 裁判所が人生で「できれば行きたくない場所」であることに変わりはなかった。けれども司法がしっかりと機能していなければ、私たちの生活はたちまち破綻してしまう。そのためには実情を知り、公明正大な裁判が行われるよう、国民が監視しなければならないのだ。

文=成田全(ナリタタモツ)