組体操はなぜなくならない? 「誰かの体力不足はみんなの責任」は“体育会系”的悪しき「連帯責任」だ

社会

公開日:2020/3/30

『体育会系 日本を蝕む病』(サンドラ・へフェリン/光文社)

 日本の一部ではいまだ、根性論や絶対的な上下関係を盾にした「体育会系」のノリが根強く残っている。人それぞれの生き方と考えれば、全否定はできない。ただ、努力や根性を笠に着た理屈は、ときとして人を追い詰めることもある。

 そんな現代社会へ一石を投じているのが、ドイツと日本のハーフであり日本で暮らし続けている著者が綴った『体育会系 日本を蝕む病』(サンドラ・へフェリン/光文社)だ。本書は、息苦しさすら生み出しかねない、この国にはびこる“負の問題”へと鋭く斬り込む。

組体操は環境が悪くとも「何も言い出せない人」の温床

 昨今、危険性などが問題視される運動会の恒例行事「組体操」を、体育会系の象徴として取り上げる著者。世間的な視点からの批判も込められているが、目からうろこだったのは、大勢の練習により生まれる「仲間意識」の裏には、悪しき「連帯責任」も芽生えるという切り口だった。

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 例えば、組体操の花形である「ピラミッド」は、運動神経やバランス感覚の悪い生徒がひとりでもいると、全員が被害を受けることになりかねない。しかし、あくまでも優先されるのは「みんな」であり、結果としてそこには「誰かの体力不足はみんなの責任」という空気すら流れてしまう。

 しかし、その完成形だけをみた一部の大人たちは「みんなで何かを築きあげるのは素晴らしい!」と称賛してしまうのだが、それこそが「危険だと分かっていながら何も言い出せない人」を生み出す温床になっていると、著者は手厳しく指摘する。

 クラスで何か悪いことがあれば学級委員、あるいは全員が罰せられるのも同じ。学校という現場で行われている「時代にそぐわないスパルタ教育」が、理不尽な目にあっても「我慢して声を上げない」ことこそが美徳という、いびつさを築きあげているのかもしれない。

かつて苦しめられてもまた“似た環境”にハマる人間の性

 社会人となってからも、体育会系のノリに苦しめられる場面は続く。昨今のいわゆる“ブラック企業”問題にも通じることだが、過去の「たくさん頑張ってきた」という経験が、かえって劣悪な環境を引き寄せてしまう、と著者は忠告する。

 体育会系の教育を受けた人は、大人になってからもその経験が「トラウマ」や「嫌な思い出」として心に残る。それならば“嫌な環境を避けるのでは?”と思えるのだが、問題は根深く、そうした環境下で「変に上手くやっていく術」を身につけた人は、結局、無意識にも選んでしまうケースも少なくないという。

 もちろん気が付いた時点で、その場からとにかく“逃げる”のは一番の得策。しかし、もし難しいようであれば「人生は私が主役」と割り切り、会社の外で人間関係を作るなど、自分にとっての“はけ口”を作っておくべきだ。

負の連鎖が続く「周りはもっと大変なんだから」の一言

 老婆心からか「苦労は買ってでもしろ」と声高に言ってくる人にも、けっして「騙されてはいけません」と主張する著者。社会や組織でよくみかける「下っ端の人が上の人に無償で奉仕する」という風潮にも、一石を投じる。

 ある程度の年齢になると「昔の人の方が我慢強い」「最近の若い人はちゃんとしていない」と言いたがる人たちもいるが、果たして、過度な「奴隷根性」を持つのは幸せなのかと疑問が浮かぶ。

 さらに厄介なのは、昔から誰かが「大変だ」と嘆くと「周りはもっと大変なんだから」と反論する人が一定数いることだ。著者は、いったんこのクセを身につけてしまうと、だんだんと周りが「自分と似たような立場にいるのに大変な思いをしていない人」のようにみえてしまい、やがては「あの人ももっと苦労すべきだ」と黒い感情を抱きかねないと警鐘を鳴らしている。

 さて、本書はおそらく賛否両論を生む1冊だ。しかし、体育会系という文化をねこそぎ“目の敵にしてやろう”という意図ではなく、気楽に生きるためのヒントが詰め込まれているという印象も受ける。今、人生に迷っている人ならば、手にとってみて損はないはずだ。

文=カネコシュウヘイ