本屋大賞受賞! 凪良ゆうが描く、救済の物語――誰に肯定されなくても、事故死した“幽霊の夫”と生きつづける幸せを選ぶ

文芸・カルチャー

更新日:2020/4/7

『神さまのビオトープ』(凪良ゆう/講談社)

 凪良ゆうさんの小説を読んだあとは、なにか甘いものが食べたくなる。アイスとか、チョコレートとか。さみしさや切なさの余韻と一緒に溶けて、身体に沁みてくれるもの。はじめて『神さまのビオトープ』(講談社)を読んだとき、なんて心の柔らかいところに容赦なく触れてくる人だろうかと動揺した。自分さえ覗きこむのを躊躇うほど繊細で、すこし揺らされただけで泣いてしまうような部分に、凪良さんは踏み込んでくる。

 そんな抽象的な言葉ではじめてしまったのは、「幽霊として戻ってきた亡き夫と暮らす女性の物語」なんてまとめてしまうと、この小説の魅力が半減してしまうような気がしたからだ。

 主人公のうる波には、事故死した夫・鹿野くんの姿が見える。会話もできる。ときには痴話げんかだってする。だから夫が生きていたときと同じように、2人ぶんの食事をつくり続けるし、おなかをすかせた鹿野くんがおいしいと喜ぶのがうれしい。でも、彼が食べたはずの食事は手つかずの状態で残っている。だから冷えた食事を、うる波は次の自分の食事にまわす。そんな彼女を周囲は心配したりあわれんだりするけれど、うる波には鹿野くんとともに過ごす幸せを手放す気がないまま、2年も3年もが過ぎていく。

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わたしは幸せだけれど、この幸せは理解しにくい形をしている。多くの人たちは異質なものを受け入れないし、幸せすら定型にはめたがる。

 凪良さんのBL作品を読んだことはないけれど、『流浪の月』や『わたしの美しい庭』などを読んだ印象から、ずっとこのことを書き続けている方なのではないかな、と思う。

 うる波は、幸せだ。鹿野くんが死んでしまったことは、とてもかなしい。彼が身体をもたないこと、うる波以外の誰にも彼が見えないこと、いつまでも過去に縛られていないで幸せになれと見合いをすすめられること、その一つひとつがいちいち、かなしいし腹立たしい。だけど、それでも、幸せなのだ。鹿野くんのために食事をつくり、軽口をたたきあい、ときに隣に座ってくれる鹿野くんが、重ねてくれた手から触れていないのに熱を感じることが。煙草を吸う、キャンバスに向かう、その見慣れた姿をいまも視界に映せることが。

 そんな彼女のまわりには、やっぱり幸せの定型から外れてしまった人がときどき現れる。愛を歪めてしまった女性。ロボットの親友しか必要としていない少年。小さな子どもしか愛せない青年……。理解されないつらさを共有できるからといって、うる波が彼らのすべてを受け入れられるわけじゃない。抱いてしまった怒りや嫌悪感に似た感情は、うる波を“かわいそう”なものとして矯正しようとする人たちのものと同じなのだと、彼女自身をも傷つける。

心の底では、いつも誰かに肯定されたがっている。大丈夫、きみは間違っていないよと言われたがっている。わたしは弱くてそれをどうしようもできない。

 といううる波は、それでも、そのやるせなさごと鹿野くんと生きる幸せを選んだ。彼女の覚悟は、定型とは別の形で幸せを探る人たちの心を揺らす。傷つかなくなるなんてことも、周囲に完全に祝福されることも、たぶんきっと、ありえない。それでも自分が望むのならば、その幸せを大事にしていいのだと。その残酷さと優しさが、読み返すたび積み重なり、生きる希望となって心に沁みわたっていくのである。

文=立花もも