村上春樹が「父のこと」を綴った最新作が、村上ファンにとって大きな意味を持つ理由とは?

文芸・カルチャー

2020/4/23

『猫を棄てる 父親について語るとき』(村上春樹/文藝春秋)

 ほんの100ページ程の本である。しかしこれまで本人からは語られることのなかった、2008年に亡くなった「父のこと」が綴られており、村上春樹の読者、とりわけ“村上主義者”には大きな意味を持つ一冊となるだろう。それほど本書『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)には、村上作品を読み解くためのヒントが数多くある。

 初出は『文藝春秋』2019年6月号だ。その際は「特別寄稿 自らのルーツを初めて綴った『猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること』」というタイトルで、文章の途中に小見出しが付き、幼い村上春樹少年と父が野球をする姿と、猫を抱く春樹少年、現在の肖像の計3枚の写真があった。これが書籍化されるに当たってタイトルが少し短くなり、本文の修正とともに小見出しがなくなり、あとがき「小さな歴史のかけら」が追加されている。写真は台湾のイラストレーター・漫画家の高妍(ガオ イェン)のイラストになり、点数も大幅に増えている(雑誌掲載の写真をトレースしたイラストもある)。

『猫を棄てる』というタイトルが表す通り、本書は春樹少年が父と一緒に猫を棄てに行くところから始まる。その不思議な出来事は、1994~95年に発表された小説『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭で消え、1年近く行方不明の後に戻ってきた猫(当初はワタヤ・ノボルと呼ばれていたが、戻ってきてからはサワラと名が変わる)を想起させる。そして父の若き日を辿るパートは、日本がずっと戦争状態であった時期と重なる。村上は『ねじまき鳥クロニクル』で1934年に起きたノモンハン事件を取り上げ、凄惨な「皮剥ぎ」のシーンを書いており、2017年発表の『騎士団長殺し』にはナチスや南京事件に関わる人物を登場させている。その源流のような出来事が本書にはあり、父の過去が村上の物語へとつながっていることが窺える。

 かつて村上春樹の小説は「父の不在」が常であったが、2002年発表の小説『海辺のカフカ』には「父殺し」のモチーフが出てくる。また2009~10年発表の小説『1Q84』では、物語の主人公・天吾の父が登場する。満蒙開拓団に参加した元NHKの集金人で、息子と折り合いが悪く、意識が混濁してなお職務に忠実であろうとする男だ。その天吾が30歳にして初めて父と正面から向き合い、言葉を交わすシーンがあるのだが、それを彷彿とさせる実際のエピソードも本書にある。こうした描写は、長い間疎遠であった父との和解による村上の心境の変化なのだろう。

 そして終盤にも春樹少年が体験した不思議な猫の話が出てくる。こちらは『スプートニクの恋人』の主人公「ぼく」の大学時代の友人で、ある日突然消えてしまったすみれの子供時代の体験と一致している。このようにほんの100ページ程ではあるが、村上作品の萌芽の痕跡があちこちに見られるのだ。そしてその根底には「父と戦争と歴史」というテーマが大きく横たわっている。村上はあとがき「小さな歴史のかけら」でこう書いている。

歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。

 父の死の翌年、「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と語ったエルサレム賞の受賞スピーチで、村上は父について少しだけ話をしている。そこで語られたことが、ようやくひとつの物語として私たちの前に提示された。今この時代に、なぜ書かれたのか――その意味を考え、じっくりと思いを噛み締めたい小品である。

文=成田全(ナリタタモツ)

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