「命」に向き合い続けた僧侶・看護師が交わした「最期の言葉」

暮らし

更新日:2020/4/28

『最期の対話をするために』(玉置妙憂/KADOKAWA)

 人は生まれたときから、いつかは必ず死ぬと頭ではわかっているのに、医療技術が発達した現代日本では、「死」は日常から切り離され、どんどん遠いものになってしまいました。

 けれど今、日本を含め世界中が、「命」に否応なく向き合っています。

 そんなときだからこそ、自分や身近な人の命や死について、じっくり考えてみませんか。

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 ご主人を自宅で看取り、その経験から僧侶となった看護師の玉置妙憂さんは、死にゆく人に寄り添って対話を続けてこられました。新刊『最期の対話をするために』(KADOKAWA)では、そのご経験から、看取りのときの心得を伝えてくださっています。

看取りのときは答えのない問いに直面する

 人生の着地態勢に入った人が、安心して最期の日々を過ごし、安らかに逝くには、看取る側の心の準備も大切です。

 終末期を迎えた方たちからは、「問われても答えられない言葉」が多く出てきます。

「なぜ死ぬのだろう」「あとどれくらい生きていられるのか」「私の人生は何だったのだろう」といった問いです。こういった言葉に、私たちは答えることができるでしょうか。

 たとえば、余命を告げられたご家族から「私の人生って、何だったと思う?」と聞かれたら、たいていの人は「そんなこと言わないで、元気を出して」などと言って、逃げ出してしまうのではないでしょうか。

 逃げてしまうのは、その問いがあまりに重いからです。

 しかし、これは答えを出す必要がない問いなのです。むしろ、逃げ出さずに聞くことこそが大事です。本当に聞くだけでよく、諭したり、ごまかしたりする必要もありません。ただ、死にゆく人の言葉に耳を傾けるだけでいいのです。

「最期の対話」例 ~沈黙の時間に気持ちが整理される~

 着地を前にした人との対話を知ることで、あなたもその心の動きが見えてくるかもしれません。玉置さんが交わした対話例を一部ご紹介します。

 この方は、バリバリの企業戦士でした。超有名電気工学系会社のエンジニアで、それこそ世界中を飛び回ってきた方です。「今の日本は、俺が作った」とおっしゃる言葉は、いわゆる“盛り”ではない事実でした。しかしそれだけに、家庭のことは奥様に任せっぱなしだったようです。奥様が「次女は幼稚園に入るまで父親に会ったことがなかったんですよ」「うちは、母子家庭でしたから」とベッドサイドでチクリチクリとこぼされます。そんなとき彼は、目を閉じてまったく聞こえていない様子。そんな日々でした。

 ところが、だいぶ呼吸も苦しくなってきたある日、めずらしく彼がご家族の話をし始めたのです。子育ては奥様に任せっきりだったこと。子どもとあまり一緒にいてやれなかったこと。「だから今になってよく文句を言われているんだ」と。やはりあれは聞こえないふりをされていたのですね。

「あいつは、俺のこと心の中では恨んでいるんじゃないかなあ」

 とおっしゃったとき、反射的に私は「そんなことありませんよ」と言いたくなりました。「奥様は毎日、面会時間ぎりぎりまでベッドサイドにいてくださるじゃないですか」と。

 でも、この言葉を口にするのをやめました。何十年という月日を夫婦として過ごしてこられたおふたりの間のことを、出会って1~2カ月の私があれこれ言うなんて「何か違うよなあ」と思ったからです。私とふたりで黙っている間の彼は、少し考え込んでいるような、それでいて何か思い出されたのか少し笑っているような、そんないろいろな感情が混ざった表情をされていました。

 そしてしばらくして、「死んだらずっと照らしてやりたいんだ」と、沈黙を破ったのです。これが、沈黙していた間に彼が思い巡らせていたことでした。なんて深い、なんて大きなご家族への思いなのでしょう。恨んでいるとか恨んでいないとか、小さなことを言わなくてよかったあ、と冷や汗が出ました。

後悔のまったくない看取りはない

 人の亡くなり方は百人百様で、「こう看取れば完璧」ということはありません。看取る人は誰もが力が及ばなかったのではと感じ、後悔のまったくない看取りはない、と私は思っています。

 看取りの現場で仕事をしていると、多くのご遺族が後悔を口にされます。本人の意思により延命治療をしなかったとしても、「延命治療を受けていればもっと生きられたのでは」と考えてしまうものなのです。

 私自身も夫を亡くしたあと、後悔の思いがありました。2度目のがんが見つかり、夫は「もう治療はしない」と決めましたが、私は「家族のことが大切なら治療してほしい」と伝えました。最終的には夫の意思に同意したものの、「やっぱり治療をしたほうがいいのではないか」と何度も悩んだのです。

 しかし、夫が私の意見を尊重し治療を選んでも、効果が出ずに亡くなったとしたら、「なぜ夫の意思を尊重してあげなかったのだろう」と後悔していたことでしょう。

 人間はどんな道を選んだとしても、後悔してしまう生き物です。したことはすべて、その時点でよかれと思ってしたことで、できることはすべてし尽くしたとしても、後悔は残るのです。もし「後悔はない」と言い切る人がいたら、そう自分に言い聞かせることで前に進もうとしているのでしょう。

 終わったことはすべて、よかったことなのです。そう思って、自分を許していいのです。