なぜ暴力団組長は有罪判決を受けたのに裁判官に感謝したのか――30件もの「無罪」を見抜いた裁判官の生き方

文芸・カルチャー

公開日:2020/6/10

『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』(木谷明:著、山田隆司・嘉多山宗:聞き手・編/岩波書店)

 裁判所とは、罪を犯した人を裁く場所であると思っていた。もちろんその役割が大半を占めているのだが、それだけじゃない。忘れがちだが、真実を明らかにするという一面もあり、ときにそれが警察や検察という“正義の機関の暴走”を抑える重要な役目を果たすのではないか。

 これは『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』(木谷明:著、山田隆司・嘉多山宗:聞き手・編/岩波書店)を読んで抱いた感想である。本書は、最高裁調査官として憲法判例を作り、裁判官として30件に及ぶ「無罪」を見抜いた木谷明さんの長編インタビューだ。

かつての日本の刑事裁判

 ニュースで目にするように、警察や検察は正義の機関でありながら、ときに目を疑うような捜査をする。日本が法治国家である以上、事件の真相は正しい捜査で、正確に明らかにするべきである。さらに罪は、その法律自体が正しいかどうかは別にして、法律に則って裁かれるべきだ。だから警察や検察の捜査には、常に目を光らせておかなければならない。人を裁く裁判官には、そういった職務もある(さらに裁判官の仕事を補佐する調査官という人々もいるが、本稿では割愛する)。

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 しかし木谷さんが経験した数十年前の日本では、刑事裁判において、警察や検察の捜査が適法かどうか疑うことなく、彼らが提出した資料を鵜呑みにし、被告人の主張を排斥して、どんどん有罪判決を出すことをヨシとしていた。したがってこの時代の刑事事件において、もしかすると表沙汰になったもの以外にも、冤罪となって収監された無実の人が幾人もいたかもしれない。

 その光景を目の当たりにした木谷さんは、異論を唱えるように、疑問を抱けば捜査資料にしっかり目を通し、被告人の言葉に耳を傾けた。無罪判決に至ってはいないが、本書を象徴する判決がある。

木谷さんが出した判決は…

 木谷さんが大阪高裁の裁判官だったとき、暴力団組長と共犯者による殺人死体遺棄事件が起きた。地裁では「組長が主犯となって事件を起こした」という共犯者の主張が採用されて、組長に懲役15年が科された。しかし組長の主張は違った。

「共犯者が主犯。共犯者が殺すというから、“殺させないために”犯行現場まで一緒についていった。けれども俺が煙草を吸うため現場を離れた隙に、共犯者が殺してしまった。仕方がないから一緒に埋めた」。だから死体遺棄は認めるが、殺人はしていないという。

 普通は暴力団組長なんてワルの中のワルの言うことを「真に受けてはいけない」と考える。けれども木谷さんは、弁護人の「暴力団組長の主張が正しい」という意見に耳を傾け、事件としっかり向き合った。具体的には、被害者の傷の状況を鑑定するよう命じて、組長と共犯者の食い違う言い分のどちらが正しいか整合性を確かめたのだ。

 結果、どうやら組長の言い分が正しいことが判明する。しかしここで思い出してほしい。組長は「“殺させないために”犯行現場まで一緒についていった」と言った。それでいて殺そうと意気込む共犯者を残して、煙草を吸うために現場を離れたというのは、暴力団組長でありながらマヌケすぎる。そう、不自然だ。つまり「俺が一緒にいると殺人をしないけど、俺が一緒にいなければ殺人をする」という気持ちで離れた可能性がある。これは「殺人ほう助」ともいえるはずだ。

 結局、組長の「俺は殺人をしていない」という主張を、木谷さんは採用した。しかし代わりに検察が「殺人ほう助」を訴因(≒主張)したので、それも認め、懲役12年の判決を下した。死体遺棄と殺人ほう助で、この量刑は重い部類だという。

暴力団組長から電話がかかってきて…

 じつはこの判決に後日談がある。ずいぶん経って、木谷さんのもとに電話がかかる。相手はあの暴力団組長だった。「てめー、あんな判決出しやがって、殺すぞ」という脅迫を思い浮かべてしまう。ところが電話の内容は正反対だった。

木谷さんが一生懸命に審理してくれたので、服役して真人間になることができました。今は下村先生のところで真面目にやっています

 足を洗ってカタギになり、(下村先生の)弁護士事務所で事務員として真面目に働いているというのだ。

 かつての日本では、警察や検察で人間として扱われず、裁判所で真実を叫ぼうとも主張が認められない被告人たちがいた。これでは罪を償うどころか、ますます心をこじらせる犯罪者が出てしまう。まして冤罪となれば目も当てられない。

 しかし木谷さんは違った。被告人の言葉に耳を傾け、警察や検察の捜査に疑問を感じたときは、真正面からぶつかった。その結果、30件に及ぶ無罪判決を出してきた。たとえ有罪になっても木谷さんの姿勢に心を動かされ、組長のように生き方を変えた人々が、本書で何人か紹介されている。ある少年は、木谷さんのことを「お父さんのように思った」というのだから、どれだけ誠意を尽くしたのか想像に難くない。

 本書は、木谷さんが裁判官や調査官として、刑事事件に向き合い続けた半生をつづる。言い換えれば、裁判に携わる者として真実を探し続けた半生ともいえるはずだ。

 できれば本書は、新型コロナウイルスであえぐ今だからこそ、様々な人に読んでほしいと願う。自粛警察やSNSでの著しい中傷表現など、一部の人が正義感をこじらせている。

 本来正義とは、真実を見極めなければ、振るうべきではない。ニュースで見かける警察や検察のいきすぎた捜査のように、ときに正義は暴力へと姿を変える。まして私たちのような一般人は、簡単に正義を心に掲げるべきではない。フィクションの世界で見る正義のヒーローは、スマホの世界に登場するわけでもなく、夜な夜なコソコソ活動なんてしていなかった。私たちは簡単に正義を掲げるべきではないのだ。

 私は本書を読んで色々なことが頭を巡った。読者が同じような気持ちを抱くかはわからない。けれども木谷さんの生き方を目にして、なにか思うところがあれば、私としてはそれだけで幸いである。

文=いのうえゆきひろ