自粛警察が意気揚々としている理由。現代にも蔓延するファシズムの「気持ち良さ」の正体は?

社会

公開日:2020/6/20

『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』(田野大輔/大月書店)

 ファシズムというと、20世紀前半にユダヤ人を大量虐殺し、第二次世界大戦の惨禍を引き起こしたヒトラーのナチス・ドイツを思い起こす人が多いかもしれない。だが、共産政権時代のソ連や戦前の日本などがファシズム国家と呼ばれることもあるように、ファシズムという言葉の定義は、専門家によってもバラバラだ。それでも大くくりにいえば、ファシズムとは「個人よりも国家全体が優先される」社会・政治思想ということができるだろう。
 
 そして、現実社会においてのファシズムは、なんらかの「正義」を掲げ、「敵」を設定し、それを集団で攻撃するという形で表れる。そういう意味では、ファシズムはけっして過去のものではないのだ。複雑な現実を単純化し、わかりやすい敵に責任を転嫁するのが特徴的なアメリカのトランプ政権や、移民排斥を訴えるヨーロッパの右派政党など、現代のポピュリズム政治にもファシズム的要素は濃厚にあるといえるだろう。また、政治の世界だけではなく、私たちの生活に身近な、いじめやヘイトスピーチ、ネット上のリンチなどにもファシズム的要素を見ることができる。
 
 ところで、ファシズムと聞くと、強力な独裁者が国民の意志を無視して強制するものというイメージをもつかもしれない。しかし、ヒトラーの独裁政権はドイツ国民の圧倒的な支持のもとに成立したというのは有名な話だ。多くのドイツ国民がユダヤ人虐殺政策も含めてファシズムを歓迎し、望んだのである。ちなみに、戦前の日本にはカリスマ的独裁者はいなかったが、国民同士による相互監視の同調圧力によってファシズム的な体制が成立していた。
 
 では、なぜ人々はファシズムに引き込まれ、積極的に参加してしまうのか? その疑問を深く考察するのが、『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』(田野大輔/大月書店)だ。著者はドイツ近代史が専門で、とくにナチス時代のドイツを研究対象にしている歴史社会学者である。『愛と欲望のナチズム』や『魅惑する帝国 政治の美学化とナチズム』など、ナチス・ドイツに関する著作も多い。

人は、ファシズムを「体験する」とどう感じる?

 本書では、ファシズムの「魅力」とその危険性を理解するために著者が大学で行っている「ファシズムの体験学習」が詳しく紹介されている。

 この授業では、まず教室で教師(著者)が絶対的指導者になることを宣言し、拍手喝采で全員に賛同させる。それから、教師=指導者に忠誠を誓わせる敬礼を導入し、教室内で敬礼と行進の練習を何度も行って集団の力を実感させる。さらに、学生たちを白シャツとジーパンの「制服」に揃えさせ、その上でみんなで教室を出て、キャンパス内の喫煙所以外でタバコを吸っている者や、いちゃついているカップルを「敵」として(これは著者が用意したサクラ)、拡声器の号令にあわせて糾弾するのである。――この「体験学習」の結果はなかなかにおそろしい。

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“学生たちは、最初こそは恥ずかしさや気後れを感じるものの、集団行動に参加しているうちにいつのまにか慣れてしまい、しだいにその「魅力」に取り憑かれていく。彼らが驚きをもって認めるのは、大勢の仲間と一緒に行動していると気持ちが高ぶってきて、他人に危害を加えるような行為にも平気になってしまうことだ”

 そして学生たちは、授業で設定された「敵」をみずから積極的に攻撃するようになるのである。ようするに、「正義」を掲げ、集団で「敵」を攻撃する「気持ち良さ」に酔ってしまうのだ。この体験学習に参加した学生の1人は次のような感想を述べている。

“自分が従うモードに入った後に怠っている人がいたら、『真面目にやれよ』という気持ちになっていた。いったん従う気に包まれたら、従わないメンバーに苛立つようになった”

 これなど、最近のコロナ騒ぎにおける「自粛警察」の心性と同じものではないだろうか。

 このようなファシズムの「快楽」の本質について著者は、権威や集団に従うことで人々は自分の行動に対する個人的責任から解放され、逆説的に「自由」を実感できるためだと分析している。この魅力は、集団的動物である人間の本能に直接訴えるため、抗するのはなかなか難しいようだ。つまり、誰にでもファシズムに取り込まれる可能性はあるのだ。自分は無縁だとか、自分だけは大丈夫というわけにはいかないのである。

 それでも、もし少しでもファシズムの魅力に抵抗しようと思うならば、「一致団結して力を合わせる」とか「足並みそろえる」といったことに対する、偏屈なまでに徹底した拒絶反応をもつことしかないのかもしれない。

【あわせて読みたいもう1冊!】
『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(ハンナ・アーレント/みすず書房)は、ユダヤ人虐殺で中心的役割を果たしたナチス将校のアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した著者が、アイヒマンが「冷酷な極悪人」などではなく、「凡庸で生真面目な、自分の仕事に一生懸命な小役人」でしかなかったことを看破したレポート。それゆえの、人間のおそろしさがひしひしと迫ってくる。『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』のなかでも、このレポートについてはページを割いて考察されている。

文=奈落一騎/バーネット

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