人はなぜカルトに惹かれるのか? 入信・脱会後にシステムエンジニアを経て住職に。異色の経歴を持つ著者が理由を説く

文芸・カルチャー

公開日:2020/6/27

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』(瓜生崇/法蔵館)

 何をもって「カルト」とするかは、難しいと思う。例えば私の家は4代続くキリスト教徒なのだが、伝統宗教だからといって「カルトではない」と云い切ることはできない。なにしろ原始キリスト教だって当時は新興宗教にすぎず、血塗られた歴史を重ねてきた。現在も宗派が違うと対立があるから、伝統の長さや規模の大小で決めることはできないだろう。また、非科学的で論理的整合性を持たない教義が反社会的で問題があるかというと、反政府活動を警戒した為政者が宗教弾圧をするという例もあるので直接的な事由とはならない。長年そう考えていた私に天啓が降りてくるかのごとく出逢ったのが、『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』(瓜生崇/法蔵館)という本だった。

 著者は、大学在学中に仏教系のカルト教団に入会し、12年間にわたり活動したのちに脱会。IT企業や印刷会社のシステムエンジニアを経てから、今度は別の宗派の住職となった異色の経歴の持ち主。そして現在は、カルトの脱会支援活動に尽力しながらカルト問題啓発のための講演活動を行なっている。

カルトに定義はあるのか

 本書の中では断りのない限り、カルトと云うときは反社会的な宗教団体を指して「破壊的カルト」としている。ただ、著者が相談を受ける多くの団体において典型的な兆候が見られたとしても、具体的な反社会性があるとは限らず、内部で起きている信者の虐待などが表面化しなければ問題提起のしようがないという課題が残ってしまう。

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 そこで著者は、脱会支援活動をしている他の人たちの考え方も加味した定義を示しており、中でも本書を通して私が外せないだろうと思ったのは「詐欺的な手法を用いて勧誘」する点と「過度な同調圧力を加えて人格を変容」するという要素だ。

なぜ人はカルトに惹かれるのか

 著者自身は、高校3年生のときに受験を控えて下見に訪れた大学のキャンパスで信者から声をかけられ、「これ、宗教ですか?」と正面切って尋ねたら「宗教じゃないよ!」と返されたそうである。そのときの著者は、からかい半分で応じただけだったため、差し出された用紙には嘘の連絡先を書いて立ち去った。それなのにその後、著者は入会して大学を中退するほどのめり込み、親からは勘当されてしまう。

 カルトに入る心理は人それぞれとはいえ、書かれている著者の体験と私が若かった頃を照らし合わせれば、言葉に出すと気恥ずかしいが「人生の目的」を探していたからと考えられる。では、人生経験も豊富な熟年層なら大丈夫かというと、子育てや仕事などが一段落ついたところで、自分の「人生の意義」を問う気持ちが生じてしまうようだ。そして活動的な若者と資金源となる高齢者が揃った団体は、勢力を拡大していくようになる。

インターネットでの攻防

 実はインターネットが普及し始めた頃、カルト団体は危機にさらされていた。教団名を検索すると、脱会者や被害に遭った人たちによる批判的なサイトが見つかるからだ。著者の感覚でも「脱会事例の七割くらいは、ネットがきっかけの一つだと思う」と述べている。一方、伝統仏教教団への批判もネットには多くあるが、ネットで脱会したという話は聞いたことが無いそうで、「教団の真実性を信仰の根拠にはしていない」ためではないかとのこと。

 その著者にしても信者として活動していたときには、教団への批判を載せているページを見つけては顧問弁護士を通じて「名誉毀損で訴えますよ」とサイト管理者に通達して閉鎖に追い込んでいったそうだ。しかし中には怯まないサイトもあったため、批判的なサイトが検索上位に表示されないようにするべく、教団に関するダミーのサイトをいくつも作って上位を占めることに成功したというから不気味な話だ。ここまでやっているという実態を知ると、最近ネットでの誹謗中傷への法的な取り締まりを望む声があるが、物事には良い面と悪い面があり、資金力のある団体が批判を封じ込めるのに悪用しないかと不安を覚える。

脱会と回復への道筋とは?

 教団を脱会した著者は、一度は勘当された両親のもとに身を寄せて就職活動をしたという。家に帰った際に両親は著者の心境の変化などついて一言も尋ねなければ、援助らしい援助もしてくれなかったそうだが、「これは助かった」と振り返る。信者を脱会させようとする人は、つい団体の批判をしてしまいがちだが、信者にとってそれは居場所を奪おうとすることに等しく、脱会して迎え入れるときにも避けるべきだという。人生をかけたものを失うのだから、それに代わる場所があると感じさせることが肝要。多くの人は決して無知だからカルトにハマるのではなく、生き方の答えを求めた先が、たまたまカルトだったというだけなのだ。

 ただそうなると、私がカルトにハマらずに済んだのは、伝統的なキリスト教の信者だからというより、スチャラカな人生を歩んできたからという気がしないでもない。

文=清水銀嶺