自慢の兄が突然トランスジェンダーであると語りだした…。男らしさや女らしさより大事なものって?

文芸・カルチャー

公開日:2020/6/28

『兄の名は、ジェシカ』(ジョン・ボイン:著、原田勝:訳/あすなろ書房)

 ジェンダーフリーの風潮が広まりつつある。だが、もし自分の家族から突然、性に関する悩みを打ち明けられたら、私たちは理解ある眼差しをもって言葉を返すことができるだろうか? 『兄の名は、ジェシカ』(ジョン・ボイン:著、原田勝:訳/あすなろ書房)は、そんなことを考えさせられる小説だ。

学校の人気者、自慢の兄がトランスジェンダーであると語りだした

 物語は10代の少年、サムの視点で語られ進んでいく。サムは、次期首相の座を狙う閣僚である母親と、その秘書を務める父親の間に生まれた次男。サッカー部のキャプテンを務め学校の人気者であるジェイソンは、サムにとって自慢の兄だ。
 
 ところがある時期から、兄のジェイソンはブロンドの髪を伸ばし始め、部屋に閉じこもるように。そんな日々がしばらく続いた後、ジェイソンは家族に自身が自覚している性が“女性”であると打ち明ける。しかし、両親は息子の告白を受け入れることができない。周囲の目を気にして、ジェイソンにとって一世一代の告白をなかったことにしようとし、その秘密を口外しないよう、サムにも念を押す。
 
 家族の対応に傷ついたジェイソンは、友人にトランスジェンダーであることを告白。表面的に受け入れてくれる友人はいたが、人気者からは一転し、ロッカーにいたずら書きされるような日々を送るようになった。
 
 弟のサムにとっても、同級生からいじめられるようになった兄を見る目は次第に変わっていく。そんなサムに対してジェイソンは、幼いころから自分の性に違和感を覚えていた話や、これからは偽らない人生を歩もうともがいていることを話すが、両親同様にサムもジェイソンの変化を素直に受け入れられない。トランスジェンダーをまるで病気であるかのようにとらえ、「治ってほしい」と口にしてしまう。
 
 さらにひどくなるいじめに限界を感じたサムは、以前の男らしい兄に戻ってほしいと思い、寝ている隙にジェイソンの髪をカットしてしまう。ショックを受けたジェイソンは叔母の家へ行き、家族の心はバラバラになってしまう。そんな時に現首相が退任し、サムの母親は有力な次期首相候補に。しかし、ジェイソンのことがマスコミに取り上げられるようになってしまい…。

 信頼している親に苦しみを分かってほしいと願う子どもの心理と、わが子を助けたいけれど変わってほしくないと願う両親の気持ち、そして生まれ持った性とは異なる性別を望む兄をどう理解すればいいのか悩む弟の心境などが丁寧に記されている本作は、私たちの「性」に対する固定観念を変えてくれる1冊でもある。

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 なかでもハっとさせられたのは、叔母がジェイソンのことを語った、この一節。

“「あの子は自分が女だと思ってるわけじゃない」ローズおばさんは言った。「女だとわかってるのよ」”

 ここでいう「思う」と「わかる」の違いは、胸にズシンと響く。

 そして、同時に思ったのが、性別という呪縛は、いま自分の性に違和感を覚えていない人やマジョリティの人にとっても「自分を殺す材料」になり得るということ。女性は女性らしく、男性は男性らしく生きねばならないという見えない圧力に悩まされている人は多いはずだ。だが、ジェイソンが語る“性への価値観”がその呪縛を取っ払ってくれる。

“お母さんを見てください。女性だからといって、お母さんは野心をもつべきじゃなかったんでしょうか? もちろん、そんなことはない!”
“自分は女性だと感じるからといって、女性が好きそうなことなんでも好きにならなきゃいけないってことにはなりませんよね?”

 女性や男性である前に、一個人としての感情をもっと大切にしてもいい。身近な家族が悩んだ時にそう言葉をかけることができたら、社会はもっと優しいものになるのかもしれない。

 作者のジョン・ボイン氏はトランスジェンダーではないが、かつて自身がゲイであることに悩み、周囲への告白を躊躇した経験があるそうだ。だからこそ、本作に描かれているセクシュアリティに対する葛藤にはリアリティがある。

 もし自分がジェイソンやサム、あるいは両親の立場だったら…と、さまざまな視点で読み込むと本作に込められたメッセージはより深く心に刺さる。偽りの人生にピリオドを打とうとするジェイソンの強さを胸に焼き付けながら、自分の中にある「女性らしさ」「男性らしさ」という固定観念も見つめなおしてみたい。

文=古川諭香

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