米国が北朝鮮を爆撃、拉致被害者救出のために自衛隊特殊部隊が潜入するが…迫真のリアリティで描く『邦人奪還』

文芸・カルチャー

更新日:2020/7/6

『邦人奪還 自衛隊特殊部隊が動くとき』(伊藤祐靖/新潮社)

「ラジャー、コメンス・オペレーション(作戦開始)」
 
 骨伝導式のヘッドセットから聞こえる声。ネコ科の捕食動物が獲物に忍び寄るようなキャット・ウォークという歩き方で、男たちが足音を忍ばせ移動している場所は――尖閣諸島、魚釣島の山中だ。
 
 彼らは、海上自衛隊「特別警備隊」。海上や海中からの隠密侵入を得意とする特殊部隊である。1999年の能登半島沖不審船事件をきっかけに創設された、実在の部隊だ。物語中、特別警備隊の隊員3名は、ある目的のため尖閣諸島へ上陸する。やがて北朝鮮で騒乱が起き、弾道ミサイル発射阻止のためにアメリカは爆撃に向けて動き出す。だが、その標的近くには日本人の拉致被害者がいるという情報がもたらされ――。
 
 緊迫する国際情勢を小説という形でシミュレーションする書物は多く出版されているが、その中で本書『邦人奪還 自衛隊特殊部隊が動くとき』(伊藤祐靖/新潮社)がひときわ異彩を放っている点は、現場にきわめて近い目線――「特別警備隊」が行動する場面のリアルな描写だ。
 
 海流に乗って岸辺に近づき、音もなく上陸する。五感をフルに使って味方の存在と意思を感じ取り、かつ地雷の被害を最小限にするために隊員同士間隔を空けて進んでいく。虫を驚かせて鳴き止ませぬよう、音を立てずゆっくりと。暗闇に慣れた目には、味方の顔だけが宙に浮いてみえてくる…読者はいつしか自らも特殊部隊の一員になったつもりで、息を殺しながらページをめくっているのに気づくだろう。

本物の元特殊部隊員による、迫真の描写

 本作の著者は元自衛官、それも物語に登場する「特別警備隊」が自衛隊初の特殊部隊として創設された際の立ち上げに携わり、小隊長を務めた人物である。退官した現在も自らの技術を磨き直し、各国の警察、軍隊への指導で世界を巡っているという。抜群のリアリティにも納得だ。

 また、隊員たちと苦楽をともにしてきたからこそ書けるのであろう、血の通った人間としての彼らへのまなざしも本書の魅力である。有事において隊員一人ひとりの死は統計的に扱われ、“損耗率”と表現されることもある。だが、彼らはけっしてゲームの駒ではない。それぞれに感情を持ち、家族があり、時には倒すべき敵の心をも思いやることができる、ひとりの人間なのだ。

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 私たちは自衛隊について議論する時、隊員たちがそれぞれ人間であることをどれくらい意識しているだろうか。作中で、武士道や愛国心を安易に口にする人々を、主人公は痛烈な台詞で批判している。

「俺は、明確な意思も覚悟もないくせに、そういうものを担ぎ出して徒党を組もうとする自称愛国者とかが嫌いなだけだ。世の中の風潮が変わったら、あっと言う間に意見を180度変えそうで信用できねえ」

特殊部隊の出動は、明日にでも起こり得るかもしれない…

 そんな彼らに対して、物語の後半で日本政府は「邦人奪還作戦」の命令を下す。理不尽に連れ去られた国民を取り返し、国家としての強固な意思を示すために。

 だがそれには代償も必要になる。犠牲者のない軍事作戦はあり得ないのだ。ページを読み進める私たちに、その痛みに耐える覚悟はあるだろうか。日本という国が平和を享受する中で戦後ずっと目を背けてきた問いを、本書は重く突きつける。

 本書はあくまでフィクションであり、現在の日本がこんな選択をすることは難しいだろうと思うかもしれない。しかし現実に、北朝鮮は連絡事務所の爆破や軍事行動計画をほのめかすなど韓国に対する挑発を強めており、香港や台湾をめぐっては米中の対立が激化するなど、日本を取り巻く国際情勢は日々刻々と不安の様相を深めている。

 また、拉致被害者の家族は、再会がかなわぬまま高齢化している。そこに、政治家たちの支持率や選挙といった都合、さらに自衛隊上層部の官僚的思考といった要素が絡みあい、歯車が回り出すことがあれば――作中の選択が現実にならないとは、言い切れないのではないか。何しろ、私たちが今まさに経験している非常事態は、半年前には誰も想像すらしていなかったのだから。

文=齋藤詠月

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