家族はもっとお互いのことを知らなくてもいい。「親子の謎」に答える内田樹とるん、父娘の往復書簡

出産・子育て

公開日:2020/7/15

『街場の親子論-父と娘の困難なものがたり』(内田樹、内田るん:著/中央公論新社)

 共感への圧力が漂う家庭の中で私は常に親から「秘密を抱えず私生活を共有し合える関係」であることを求められ、息苦しかった。何度、「私を放っておいて」という言葉をぶつけたいと思っては飲み込んできただろうか。両親が家族であるから知りたいと思うのと同じように、自分には家族だけには知られたくないことがたくさんあったのだ。

 だから、『街場の親子論-父と娘の困難なものがたり』(内田樹、内田るん:著/中央公論新社)を手に取り、理解し合うことに重きを置かなかった親子がいることに驚き、羨ましくもなった。本書は名文家の内田樹さんと、その娘るんさんが1年間にわたって続けた往復書簡をまとめたもの。2人のやり取りは、誰もが感じたことがある“親子の困難”を解決するヒントとなる。

肉親こそ「分かり合えない気持ち」を大切に

 樹さんは、るんさんが6歳の時に離婚。シングルファザーとして娘を育て上げた。コミカルな往復書簡からは仲の良さがうかがえるが、そんな親子にも各々の心に秘め続けていた葛藤はあったよう。作中には愛しているからこそ感じてしまった負い目や、言えなかった謝罪が赤裸々に綴られている。

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 ユニークなのは、2人が語る回想記の記憶が微妙にかみ合っていない点。同じ思い出でも捉え方や残っている記憶が違うのだが、それは親子が分かり合う難しさを表しているかのようだった。

 一方からしてみれば何でもないようなことでも、もう一方からしてみると尾を引く記憶になってしまうことは多いもの。特に親子は一緒に過ごす時間が長く、距離も近いため、そうしたすれちがいが起きやすい。それなのに肉親には、「同じ気持ちでいるはず」という思いこみを抱き、分かった気になり相手を見てしまうこともある。けれど、自分のことさえもよく分からない人間同士が他者のことを完璧に理解するのは不可能に近い。

“どんなに親しい間でだって、共感できることもあるし、できないこともある。理解できることもあるし、できないこともある。(中略)そういう「まだら模様」があると思うんですよ。”

 そう語る樹さんと同じく、るんさんも人間同士が“本当の気持ち”を分かり合うことの難しさを綴る。

“痛みの度合いは人それぞれだし、「わかるよ」なんて気軽に言えないときもあります。(中略)言葉を重ねても、空虚に響いてしまったり。一体いつ、どういう要因で、私たちは「気持ちを通わせた」のだと感じることができるのでしょう。”

 気持ちを鑑み、想像し、考察したとしても本当のところなど、結局誰にも分からない。だからこそ、適度な距離を保ちつつ、ところどころでかみ合う“まだら模様な家族史”を築いてきた内田親子から学ぶことは多い。親子の絆を呪縛にしないためには「分かり合うこと」ではなく、「分かり合えないこともあると知ること」のほうが大切なのかもしれない。

 家族が自分とは違う思想や価値観を持っていると、たしかに折り合いをつけるのが難しい。だが、理解や共感がたとえできなくても、私たちは家族として繋がることができるはずだと樹さんは訴える。

“どうしても理解が及ばなくても、家族のメンバーがすることについては原則としてそれを受け入れ、できる範囲で支援する。(中略)理解も共感もなくても、人は支え合うことができる。必要なのは、具体的に困った場合に、寝るところや食べるものや病気のときの手当を差し出すことだと思います。”

 この持論には、究極の家族愛が記されているように思えた。各々が何を考え、どう生きるかを縛る権利は家族にだってない。私たちはもっと肩の力を抜いて、親子を楽しんでもいいはずだ。

 あの頃の私は、こんな風に親に受け入れてほしかったのかもしれない。そう思える温かさが本書には溢れていた。親と子ではなく、一個人として目の前にいる相手と接し、向き合うことの大切さを教えてくれる2人の往復書簡には足枷にならない家族の形が描かれている。

 親子間のすれちがい。それはもしかしたら、大切な家族への愛情表現の仕方を間違えたがゆえに生まれてしまうものなのかもしれない。

文=古川諭香