現代の「奇書」? 正しさを追い求める男子大学生の歪なキャンパスライフ【芥川賞受賞】

文芸・カルチャー

公開日:2020/8/8

破局
『破局』(遠野遥/河出書房新社)

 正しいとか、恵まれているということが、必ずしも人を救うとは限らない。そういう整えられた日常がどうしようもない虚しさを感じさせることだってある。

 第163回芥川賞を受賞した『破局』(河出書房新社)は、そんな現代の虚無を描き出した作品だ。作者の遠野遥氏は、慶應義塾大学法学部出身の28歳。この物語の舞台も慶應義塾大学なのだろう。2人の女性の間で揺れ動く大学生を描き出したこの作品では、日吉キャンパスや日吉駅周辺の様子が描写され、卒業生としては懐かしさを覚える。だが、青春を描いているはずなのに、そこに甘酸っぱさはない。満たされているはずのキャンパスライフは、どこかいびつ。ホラー小説のような、おどろおどろしさのある物語なのだ。

 主人公は大学4年生の陽介。元ラガーマンの彼は、母校の高校ラグビー部でコーチをしながら、公務員試験受験に向け、勉強に励んでいる。日課は、筋トレと、自慰行為。政治家を目指す恋人・麻衣子とは、うまくいっていないらしい。ある日、友人のお笑いライブを観にいった陽介は、新入生の灯と知り合う。灯のことが気になりはじめた彼は、麻衣子と別れ、灯と付き合うことになるのだが…。

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 陽介は、正しく行動することをプログラミングされてしまったような人間だ。感情に突き動かされるのではなく、「こうするのが正しい」と頭で考えた方向へと行動していく。

私はもともと、セックスするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちいいからだ。セックスほど気持ちのいいことは知らない。セックスの機会を、私がみすみす逃したことはないだろう。一方で、相手の望まないセックスは決してしない。そんなことをすれば、その女をひどく疲れさせ、場合によっては、深く傷つけるだろう。女性には優しくしろと父は言った。

 陽介の一人称の自分語りは、わざわざ言わなくても良いようなことまで淡々と語り、時に笑いを誘う。だが、それは、丁寧なようで、無愛想。陽介からは、感情も他人への思いやりも感じにくい。それが物語全体に不自然さを与え、読者を困惑させるのだろう。

私には灯がいた。灯がまだいなかったときは麻衣子がいたし、その前だって、アオイだとかミサキだとかユミコだとか、とにかく別の女がいて、みんな私によくしてくれた。その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。

 陽介という人間を不気味に思いながらも、そのアンバランスさに少しでも共感してしまいそうな自分が恐ろしい。やがて、「正しさ」にがんじがらめにされていた陽介の日々は、あまりにも突然崩壊していく。その唐突さに唖然とさせられるのはきっと私だけではないだろう。

 この本は一体何なのか。ホラーというよりも、もしかしたら「奇書」と呼んだ方が適切なのかもしれない。本を読みはじめた時から何かに惑わされているような気がしてならない。そして、本を読み終えた後も、心に重たいものが残ったまま。今もどうしようもない不安が胸に巣食ったままだ。

 あなたもこの「奇書」をぜひ体感してみてほしい。今まで感じたことのないような強い衝撃。ここには確かに現代の虚無がある。

文=アサトーミナミ