あなたはどれくらい文章を読めていますか? ベストセラー作家が説く大人の国語の授業

文芸・カルチャー

公開日:2020/8/16

「読む」って、どんなこと?
『「読む」って、どんなこと?』(高橋源一郎/NHK出版)

 文章は誰でも簡単に読める。けれども「文字を目で追うこと」と「文章を理解すること」は雲泥の差だ。さらに文章を読むことには、もう一段、深い味わい方がある。

 活字離れが叫ばれて久しいが、SNSの登場で、むしろ短い文章を目にする機会は増えた。読書が好きな人も、SNSしか文章に触れない人も、果たしてあなたはどれだけ“文章を読めている”だろうか?

『「読む」って、どんなこと?』(高橋源一郎/NHK出版)をパラパラとめくっていると、今まで自分が読んできた文章を、また読み直したくなった。この作品は、この読み方でよかったのかな。あの詩は、あの味わい方でいいのかな。この前みたSNSの投稿は、投稿主がどんな気持ちをこめていたのだろう。なんだか文章を読むことについて、色々と考えさせられるから面白い。

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 著者は、『優雅で感傷的な日本野球』(第1回三島由紀夫賞)、『さよならクリストファー・ロビン』(第48回谷崎潤一郎賞)など、多数のベストセラーを世に送り出した作家の高橋源一郎さん。静かな語り口で、読者に寄り添うように、読む世界の素晴らしさを提案している。

オノ・ヨーコさんの本を読んでみる

 本書は、小学校で習った文章の読み方を振り返り、その読み方を高めるために高橋さんが独自に選んだ文学作品を引用し、様々な角度から作品を味わう手本を解説する。いわば大人の国語の授業だ。

 本書の講義は1限目から6限目まで続いていくのだが、本稿では1限目の「簡単な文章を読む」と、4限目の「(たぶん)学校では教えない文章を読む」を取りあげたい。

 まずは1限目、高橋さんが取りあげた、オノ・ヨーコさんの『グレープフルーツ・ジュース』を読んでみよう。

地下水の流れる音を聴きなさい。

 なるほど、この本はオノさんの思いを、短い詩や句で表現しているようだ。

心臓のビートを聴きなさい。

 ふむ、とても簡単な文章だ。読めない漢字はないし、意味を取り違えるほど複雑でもない。

録音しなさい。
石が年をとっていく音を。

 けれどもこの文章をどう読むべきか、悩んでしまう。地下水の流れる音も、心臓のビートも、普通の方法では絶対に聞けない。まして「石が年をとっていく音」なんて存在するのか。

世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

 うわぁ、絶対に無理だ…。なぜオノさんは「実現不可能」なことばかり書き連ねたのか。高橋さんはこの本を読んで、このように考えた。

オノ・ヨーコさんが、わたしたちに「やる」ようにいっていることは、この社会では、ぜんぶ「無意味」で「無価値」なものばかりです、一円にもならない。そんなことをやっているのは、愚か者、落伍者さ。頭がオカシイんじゃないの。
まるで、砂場でお城を作っては壊し、また別のお城を作っては壊し、そのたびに、ゲラゲラ笑っている子どもみたいです。
そんなことを大のおとながやるなんて。
だから、わたしたちは、オノ・ヨーコさんのことばに警戒し、でも、同時に、なんだか、ちょっとやってみたくなる。そのつづきを、自分で書いてみたくなる。
たとえば、こんなぐあいに。
「教室を出て、外を歩く。二度と戻って来ない」とか、
「教科書を燃やし、その火にあたる」とか。

 もしオノさんの本に出会う機会があったとして、そのときあなたは、わたしは、この文章をどのように読んだだろう。「意味が分からない…」と切り捨てたかもしれない。「オノさんって、変わった人なのね」と、人物像を簡単に評して本を閉じたかもしれない。

 でも文章の読み方を身につければ、もっと楽しい瞬間が待っている。これこそが本当の読書の世界だろう。本書を読めば、読者をそんな世界の入り口へ連れだしてくれる。

混乱した文章から見えてくるもの

 続いては、4限目の「(たぶん)学校では教えない文章を読む」だ。高橋さんがここで取りあげたのは『天皇陛下にささぐる言葉』。これは『堕落論』で有名な作家の坂口安吾さん(1906~1955)が、戦争の終結から約2年半後に書いたものだ。当時の天皇陛下へ、思いの数々を言葉にしている。

 高橋さんも本書で述べているが、正直にいって、読めたものではない。かなりキワドイ言葉が並んでいるので、本稿ではごく一部を引用するにとどめたい。

地にぬかずくのは、気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがい共の人気を博し、歓呼の嵐を受けている。道義はコンランする筈だ。

いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又、負ける。

 どうにも擁護のしようがない。内容が過激なことはもちろん、今では絶対に使ってはいけない「気違い」というワードが登場する。それも漢字表記とひらがな表記が混じって、統一されていない。というより全体的に乱雑だ。まるで居酒屋の酔っ払いのおじさんが、怒りにまかせて叫んでいる感じ。今でいえばSNSの猥雑な投稿に似ている。とにかく自然と眉間にしわが寄る文章だ。

 さらに驚くべきは、この約1年前、つまり終戦の翌年に出版された『堕落論』の内容だ。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。

 このように『堕落論』は、坂口安吾の力強く考えぬかれた論説が光り、大変に有名になった。しかしわずか1年後に出版された『天皇陛下にささぐる言葉』は、前出のように見るも無残。ここに高橋さんが取りあげた理由がある。少し長いが引用したい。

坂口さんの文章は混乱しています。焦っている。というか、息せき切って走っている。どうしてなのか。坂口さんが「熱い人」だからです。
何百万人もの人が死んだ。若者も老人も。坂口さんの目の前で、身体中から火を放ちながら、死んでいったのです。
大きな事件、天災や戦争が起こり、社会がひっくり返りそうになったとき、人びとは、このことを絶対に忘れない、と誓う。けれども、悲しいことに、「絶対に忘れない」ものもまた、忘れられていく。それも、すぐに。
人びとは、生きることに忙しくて、死んだ人のことなんか覚えている余裕がないからです。
けれども、ときどき、そのことに違和を告げる人がでてきます。大きな声で、「そうじゃないだろ!」と叫ぶ人が。

未来は、雲の向こうにあって見ることはできず、過去は壊れてしまいました。なにもかもが可能な、そして、なにもかもが失われた故に、みんなが完全に平等であるようにも見える、不思議な時代でした。
誰がエラいのか。どんな考えが、これからの時代を支えるのか。壊れた社会が元に戻るのか、まったくちがった社会がやって来るのか。誰にも、なにもわからない。そんな瞬間があったのです。
坂口さんの「文章」には、そんな「混乱」がはっきり刻み込まれています。そして、そんな「混乱」を精一杯、誠実にいきようとしたひとりの人間のことばを読んでいると、いまのわたしは、なんだか、まぶしいものを見るような気持ちになってしまうのでした。

 どんな文章であっても、書いた人には主張したい声がこめられている。どれだけ文章が乱雑で読めたものではなくても、なぜそのようなことを書いたのか、その人の背景を理解する気持ちがあれば、違う景色が見えてくる。

 文章を読むことは、並ぶ文字を真正面から読み取るだけじゃない。書いた人の立場になって、想像力を働かせて、もっと奥深くから受け止めることではないか。

 本書は、多数のベストセラーを世に送り出した作家・高橋源一郎さんの静かな語り口で読者に寄り添うように、もう一段、文章を深く味わうための大人の授業。本書を手に取ることで読者の世界が広がれば、これほど素晴らしいことはない。

文=いのうえゆきひろ