障碍者施設「やまゆり園」で19人を殺害した植松聖。隠されたその動機は…

社会

更新日:2020/9/1

やまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのか?
『やまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのか?』(神奈川新聞取材班/幻冬舎)

 相模原障碍者施設殺傷事件は、2016年7月26日未明に神奈川県立の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」で発生した大量殺人事件。犯人は同施設の元職員だった植松聖(当時26歳)で、深夜に施設に侵入し、刃物で入所者19人を刺殺。入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。この悪夢のような事件の顛末を追ったのが、神奈川新聞取材班『やまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのか?』(幻冬舎)である。

 犯行前後の植松の具体的な動向や殺人の手口などについては同書に譲るが、遺族の傷の重さはいやというほど伝わってくる。事件後に現場に駆け付けたある家族は、被害者の生死を「○」「×」で表されていることに愕然とする。また別の被害者家族は事件後、年賀状や結婚式で「おめでとうございます」と書く/言うことができなくなってしまったという。

 植松の犯行の動機や背景については謎が残る部分も多い。そもそも、19人が殺害された事件で審理期間が2カ月もないという点に理不尽さを感じるのだが、それについてはドキュメンタリー作家の森達也も言及している。

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 森がオウム真理教の犯行や裁判を執拗に追った『A3』(この本も名著)でも書かれているが、大きな事件になればなるほど、被告の心中を司法がきちんと解明できなくなっている。そのように森は言う。

 とはいえ、本書を読むと植松の深層心理の一端が垣間見える。例えば、私たちが多かれ少なかれ共有している合理性信仰や能率/効率優先主義を犯行の動機として捉えることはできないだろうか。

 その根拠となるのが、植松が犯行の5カ月前に衆議院議長公邸を訪問し、大島理森(ただもり)衆議院議長宛に渡した手紙だ。一部を要約すると、「障害者は人間ではなく動物であり、重複障害者は安楽死すべき」「障害者は不幸を作ることしかできず、合理的に不必要」といった内容。

 匿名のネット言論界では賛同者も多かったこの主張に、震えあがった人は多いだろう。「生産性」を持たぬため、この世界に居場所がなくなるのは障碍者のみではない。強者が勝ち抜く能力主義下の社会では、弱者の憎悪の矛先がさらに弱い人に向かう。

 この主張を敷衍すると、ナチスドイツがかつて掲げた「優生思想」へと辿り着く。障碍の有無や人種などを基準に人に優劣をつけるこの思想は、生産性や効率性がなければ「生きる価値がない」という考えに結びつく。その思想は障碍者や高齢者、経済的に困窮状態にある人にも適用されるだろう。

 また、この事件は死刑制度そのものの問題がこれまで以上に問われるものとなった。植松が犯した罪は命を選別し「生きる価値がない」と断定した障碍者を殺したこと。その彼を我々が「生きる価値がない」と断定して処刑するのだ。選別に対する選別、である。

 作家の辺見庸も本書内でこの奇妙なパラドックスを嘆く。植松を死刑にすることで、人間は生きていい人間と、そうでない人間がいるという植松の二分法を、司法や我々は肯定したことになるからだ。

 字数が尽きたが、本事件で被害者家族の殆どが実名を公表していない理由、逆に被害者35人全員が実名を明らかにした京都アニメーション放火殺人事件の内実、障碍者施設の建設に「絶対反対」の看板を掲げる市民の主張、パラスポーツにおける欺瞞等々、考え続けなければならない問題点が凝縮されている、射程の長い本だ。本書を起点に考察できる事象は、いくらでも転がっているだろう。

文=土佐有明