夫もまた、アルコール依存症の父親のようになってしまうのか――。家族の愛情に傷つけられた女性の叫び

文芸・カルチャー

公開日:2020/9/16

全部ゆるせたらいいのに
『全部ゆるせたらいいのに』(一木けい/新潮社)

 愛情というものは実に不確かだ。それは絶対的なものなのか、そもそも存在しているのか、それすらわからない。けれど、そこに「家族の」という形容がつくと、途端に神聖視されてしまうことがある。「家族の愛情」は確かに存在するのだからと言われ、家族を愛すること、家族から愛されることがさも当たり前だと響くのだ。でも、家族だからこそ愛情が歪み、暴走し、途方に暮れることは珍しくないとも思う。そんなことを考えたのは、一木けいさんの新作『全部ゆるせたらいいのに』(新潮社)を読んだのがきっかけだった。

 本作の主人公は子育てに奮闘する母親・千映。卒乳したばかりの娘・恵は「まま」しか言えず、ひどい夜泣きを繰り返す。娘が泣き出せばシャンプーの途中だろうと駆けつけ、とんとんと背中をたたいてあげる。そんな日常に、千映は少しずつ追い詰められている。

 恵はかわいい。そこには確かに愛情がある。それなのに千映が追い詰められているのは、夫・宇太郎が夜な夜な呑み歩いているからだ。宇太郎の呑み方はひどい。泥酔し、吐瀉物にまみれ、物を失くし、記憶すら失くす。その様子に、千映は恐怖すら覚える。それはなぜか。アルコール依存症だった千映の父親の姿が重なってしまうからだ。

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“このままだと宇太郎は父と同じようになってしまい、恵がわたしと同じ道を歩むことになるのではという不安が、夜毎ふくらんでいく。それだけは避けたい”

 アルコール依存症の父に振り回され、心に傷を負った千映。愛する娘に同じ想いをしてほしくないと、宇太郎の飲酒をやめさせようとするも、なかなかうまくいかない。そして千映は、諦めを抱いてしまう。

“宇太郎に対しては諦めの気持がある。どうせ死ぬまでこのままだろうなと思う、諦めるんじゃなくて、ゆるせたらいいのに。ゆるして信じてやさしくできたらいいのに”

 諦めることとゆるすこととは、どう違うのだろう。千映も抱くこの疑問は、そのまま読者のものとなる。愛する家族がすることだから、無条件にすべて受け入れることが“ゆるす”ことなのか。あるいは、それは“諦める”ことなのか。では、愛する人を“諦める”とは? そこにはもう愛情は存在しない? 読み進めていくにつれて、一木さんが千映を通じて訴えかける問いが、胸中を埋め尽くしていく。

 本作の第2章、第3章は千映の母親、父親の目線で過去のできごとが綴られていく。千映の父親がどうしてアルコールに溺れていったのか。その描写はとても壮絶でいて、しかしながら、一般的には“ダメ”という烙印を押されるであろう父親にも愛情の片鱗があったことがうかがえ、複雑な想いにとらわれる。千映の立場になって考えると、とてもじゃないけれど父親のことをゆるせない。でも、ゆるしてあげたい、とも思ってしまう。

 第4章は再び千映の視点に戻り、父のアルコール依存症の治療のために奮闘する様子と、そんな父が亡くなったときのことが綴られる。最後の最後まで「家族の愛情」というものに振り回された千映が、一体どんな生き方を選択するのか。彼女が導き出した結論と最後の一行に、僅かな希望を感じた。

 同時に、本を閉じた後、一木さんがタイトルに込めた想いを想像する。全部ゆるせたらいいのに――。これは「ゆるしたいけど、ゆるせない」という千映の悲痛な叫びだろうか。

 願うことならば、父親の呪縛に苦しんできた千映が、新しく築いた家族と、愛情に満ちた日々を送ってもらいたい。そうなればきっと、タイトルに滲む千映の悲痛な叫びが、昇華されていく気がする。

文=五十嵐 大