「竜宮城でラクして暮らしたい…」浦島太郎が竜宮城で失ってしまったモノとは? 新しい昔話で描かれるのは…

文芸・カルチャー

公開日:2020/9/20

『浦島太郎の忘れもの』(B・コーイッチ/幻冬舎)

 もし、突然華やかな生活を手に入れることができたら、今の普通の暮らしに再び戻れるだろうか? いや、その前に戻りたいと思うだろうか? 『浦島太郎の忘れもの』(B・コーイッチ/幻冬舎)は、そんなことを考えたくなる深い小説だ。本作は誰もが知っている「浦島太郎」に新たなエッセンスを加えた、大人の心に染みる現代風昔話。
 
 母親に昔話を読み聞かせてもらったあの頃、自分はもっと純粋な人間だったように思う。いきなり華やかな世界に足を踏み入れた浦島太郎が、元いた場所に帰りたがる描写を、何の疑問も持たずに受け入れられるほど。それは家族や友達、育った土地の尊さを実感していたからだ。けれど、もし、今の自分が初めて浦島太郎を見聞きしたとしたら、「そのまま竜宮城にいればいいのに…」と思ってしまいそうな気がする。
 
 私は何か大切なものを見失っているのではないか。そう感じたからこそ、本作を手に取り、自分の忘れものも探したくなった。

夢のような生活の中で失ったものは…?

 漁師である浦島太郎は、母親と2人暮らし。些細な不満こそあれど、家族や友人に囲まれて温かい日々を過ごしていた。

 そんなある日、浜で男の子たちからいじめられていたウミガメを助け、竜宮城へ。そこにはこれまで目にしたこともない華やかな世界があった。

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 浦島太郎は美しい乙姫やお館さまと共に「浮世ワスレ」という美酒を嗜みつつ、宴を楽しむ。翌日には母親のことが気にかかり、家に帰ろうとするが、午後から海が時化ると聞き、帰宅を断念。仕方ないと自分に言い聞かせ、その日も宴を楽しんだ。

 翌日以降もウミガメの不在などを理由に帰れなかったが、浦島太郎は徐々に竜宮城での生活を心地よく感じ始める。浮世ワスレをもっと飲みたい。乙姫の美しい舞姿を見たいと思うようになっていく。

 一方、浦島太郎の失踪により、村は大変な騒ぎに。村人総出で探しても見つからなかったため、浦島太郎は死んだことにされた。だが、母親だけは諦めていない。一縷の望みを抱き、息子がいなくなった浜辺に花を手向け、我が子に語りかけ続けた。

 そんなことになっているとは知らない浦島太郎は相変わらず、竜宮城での暮らしを満喫。しかし、祭りのような暮らしが当たり前になるにつれ、自分が住んでいた村が恋しくなった。おっかあに会いたい。そう思い、3年間の竜宮城生活にピリオドを打ち、村に帰ることを決意する。

 どれだけ引き留めても意志が揺るがない浦島太郎を見て乙姫もついに諦め、土産にと玉手箱を渡す。それは、歳月の流れを変える以外はどんな願いも叶えてくれるという不思議な箱。土産なのに開けてはならないその箱を持ち帰りながら、浦島太郎はどんな願いを叶えてもらおうかと考えていた。

 ところが、村に帰り仰天! そこには家も父が眠る墓も、見知った小川もない。予想だにしていなかった状況に困惑していると、ひょんなことから長老に会え、自分が戻ってきたのは700年後の世界であることを知る。その時浦島太郎が抱く感情や後悔は、大人である私たち読者の胸に突き刺さる。自分は今をきちんと生きているだろうかと、考えさせられるのだ。

 また、浦島太郎へ向けた長老の言葉にもハッとさせられる。

“人は、玉手箱を持たずとも、だれもが切実な願いや思いをそれぞれの胸に秘めて、この浮世を懸命に生きているのではなかろうか? たとえ、それがかなわずとも拠り所を求めずにはいられない”

 この台詞には、帰る場所や頼る人をなくしてしまった浦島太郎が玉手箱を開けた答えが隠されているようで感慨深く、自分も玉手箱のようなものに期待していたのではないだろうかとも考えた。

 私たちは年を重ね、自分の能力や才能の限界を悟るにつれ、手に入らなかったものに目が向きやすくなる。その一方で、手に入れてきたものや、今無条件にそばにいてくれる人のことはぞんざいに扱いがちだ。夢のような生活を求め、現実をありのままに見ないその姿は、どこか浦島太郎と似ている。

 そんな自分の姿に気づくためにも、ぜひ本作を手に取ってみてほしい。玉手箱を心の拠り所にしなくてもいい、真の人生の価値を教えてくれるこの物語は、大人の私たちにこそ必要な新しい昔話だ。

文=古川諭香