疲れた心に10分の贅沢を。 繊細で優しく、日によって響くものがちがうアンソロジーの魅力

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/1

1日10分のぜいたく NHK国際放送が選んだ日本の名作
『1日10分のぜいたく NHK国際放送が選んだ日本の名作』(双葉文庫)

 働く大人は、ときに“想像する”ことさえ重荷になるほど、気力と体力をそこねてしまう。そういうとき、ふと癒してくれるのは、物語の躍動よりも静かに心にしみてゆく描写だ。現実と地続きで、感情を添わせやすく、けれど“私”の話じゃないから少しだけ“今”を忘れられる、そんな短いお話を丁寧に彩る描写。『1日10分のぜいたく NHK国際放送が選んだ日本の名作』(双葉文庫)に収録されているのはすべて、それを贅沢にあじわい、つかのま心を浮遊させてくれる小説ばかりだった。

 あさのあつこ、いしいしんじ、小川糸、小池真理子、沢木耕太郎、重松清、高田郁(※)、山内マリコ。と、取り上げている作家たちも贅沢だ。思わぬ出会いを得られるのがアンソロジーの魅力なので、あえて作家の名前は見ずに読んでみたところ、いちばん印象に残ったのは小川糸さんの「バーバのかき氷」。

 小5のマユは、さみしくて、腹立たしくて、もどかしい気持ちをもてあましている。愛人をつくって出ていったパパにも、マユよりバーバを甘やかすママにも、施設に入り、マユのことを忘れてしまったバーバにも。そんな複雑な思いを抱えながらも、ある日、何も食べなくなったバーバのため、衝動的にある場所へと向かうのだが……。

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 あらすじだけ聞けばシンプルな物語を、特別に仕立てているのは、色やにおいを感じさせる描写だ。〈果物が腐る寸前のような、熟した甘い匂い。バーバに近づくと、林檎と梨と桃を混ぜたような匂いがする。そして、この匂いを嗅ぐたびに、私は生まれて初めてチーズを食べた時のことを思い出してしまう。〉とか〈ホームに戻ると、またカーテンが閉じられていて、部屋全体が飴色に見える。〉とか。行間からにじみでる、マユの繊細で敏い感受性と、ママやバーバへの愛。決して美しいだけじゃない、苛立ちや矛盾も抱えながら、それでも手放したくないと願うかけがえのないもの。その切実さがわずか十数ページで浮かびあがり、胸がつまる。

 季節の果物を売る72歳の女性と、常連の若い男性の交流を描いた、いしいしんじさんの「果物屋のたつ子さん」は7ページしかないのに、一本の映画を観終えたあとのような味わい。〈初夏の夕陽がちろちろと水面をなめている。小さな橋の上を、ゴム製のサッカーボールがてんてんと転がってくる〉光景を眺めながら、カマスの開きが入った買い物かごをさげ、疎水べりの道を歩くたつ子さん。たった数行の描写から、そこにはたしかに人が“生きている”と感じさせられてしまうから、何度も何度も噛みしめてしまうのだ。

 疎遠になっていた小学生の孫息子を迎え入れる、駅蕎麦屋の亭主を描いた高田郁さんの「ムシヤシナイ」もよかった。心も身体も限界までこわばった少年の手をとり、ざく、ざく、と一緒に包丁でネギを刻む祖父。号泣する孫の背中を撫でる祖父の手のしわまで、描かれていないのに眼前によみがえるような筆致に、ぐっときた。

 3つをあげてはみたものの、読み直してみればたぶん「やっぱりこれも」と他の作品をあげるだろう。そんなふうに、日によって響くものがちがうのもアンソロジーの魅力。十分の贅沢を毎日くりかえしていけば、疲れた心に少しずつ安らぎが戻るような気がする。

文=立花もも

(※)高田郁さんの「高」は「はしごだか」が正式表記です。