「今と重なる!」奈良時代に流行した疫病、不安と恐怖、人間の本質を描いた話題作が文庫に

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/6

本日発売の「文庫本」の内容をいち早く紹介!
サイズが小さいので移動などの持ち運びにも便利で、値段も手ごろに入手できるのが文庫本の魅力。読み逃していた“人気作品”を楽しむことができる、貴重なチャンスをお見逃しなく。

《以下のレビューは単行本(2017年11月刊行)内容の紹介です》

『火定』(澤田瞳子/PHP研究所)

 こんなにも“今”と重なる小説があるだろうか。2017年下半期の直木賞候補作となった『火定』(澤田瞳子/PHP研究所)の舞台は、奈良時代。民を救うため、というよりは、皇后の兄である藤原四子の威光と慈悲を示すために建てられた施薬院は、出世とは程遠いために官の足が遠のき、町医者だけで成立している。そこに新羅から持ち込まれた疫病――天然痘が流行し、都中がパニックになるなか奮闘する医師たちの物語だ。

 医者になんかなりたくないし、立身出世のためとっとと辞めたい、と不満をくすぶらせている下級官僚の蜂田名代(はちだのなしろ)。本書は、不平たらたらの若き青年の成長譚であると同時に、皇族を診療する職を得ながら同僚に陥れられ牢獄に入れられ、医師としての矜持を捨てた猪名部諸男(いなべのもろお)を対比的に描くことで、医療とは何かを問う物語にもなっている。

 治療法が見つからないまま人との接触を避けるしかない恐怖と不安。いかさまの神をでっちあげ、病に効くというふれこみで札を高額で売りつける宇須(うず)という男の扇動。藁にもすがる思いで札を信じ、命を救えない施薬院を糾弾して娘を連れ帰ってしまう親の情。新羅からの使いが持ち込んだ病と知れて、怒りと不安のやりばを失った民が、異国の民を排除しようと起こす暴動。保身ばかりに走って、施薬院にも手を差し伸べようとしない官たちの無責任。そのどれもが今の私たちにとって、他人事ではない。

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〈病とは恐ろしいものだ、と名代は思う。それは人を病ませ、命を奪うばかりではない。人と人の縁や信頼、理性をすら破壊し、遂には人の世の秩序までも、いとも簡単に打ち砕いてしまう。〉

 阿鼻叫喚の世を見て思い知る名代のこの心情は、共感、というには生易しく、胸に深々と突き刺さる。自分が守られることばかり考えていた名代も、命をかけて患者たちを救おうとする60過ぎの医者・綱手(つなで)の姿を見て――30年前に似た病が流行したときに生き延びた彼の忸怩たる思いと、ゆえの決意を察して――自分が今、ここに存在していることの意味をとらえなおす。

 一方で諸男は、獄中で出会った宇須に嫌悪感を覚えながらも、消せない怨嗟から「みんな滅びてしまえ」と彼の扇動に加担するのだが、彼らが悪か、というとそうと言い切れないものがある。「金儲けのために札を売っているんじゃない。自分の言葉一つで大勢が右往左往している様が、ただ面白くってならねえんだ」と、最終的には人を死に追いやるデマを流した宇須は、かつて権威あるものに切り捨てられた弱者のひとりだった。諸男もそうだ。いわれのない罪で投獄され、誰も助けてくれず、切り捨てられ続けてきた。社会に危機が訪れたとき、真っ先に切り捨てられるのは力をもたない人たちだ。…施薬院の隣に住む親のない子どもたちが、非業な運命を遂げたように。

 本書は小説だから、必ず“終わり”がくる。けれど多くの救えなかった患者をまのあたりにして、苦しみ抜いてたどりついたラストが、ハッピーエンドと呼べるかどうかは、名代が“ここに在る意味”をいかに自覚するかによるだろう。そして、終わりの見えない今を生きる私たちが、未来を明るいものとして導けるかどうかも、その自覚にかかっているのかもしれない。

文=立花もも