視覚障害者にスポーツを体験してもらうために開発された「人力VR」とは!? 「スポーツを翻訳する」ことに挑んだ研究者たち

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/14

見えないスポーツ図鑑
『見えないスポーツ図鑑』(伊藤 亜紗、渡邊 淳司、林 阿希子/晶文社)

 英国で行われたサッカーの試合に、ボールを自動追跡するAIが搭載された最新カメラを導入したところ、試合中ずっと禿頭の審判を追い続けるトラブルが起きたというニュースがあった。ボールを追った躍動感に富んだ映像を愉しめるはずだった視聴者からは、折角のゴールの瞬間が見られなかったとクレームが殺到したらしい。五感のある人間が目視しながら撮影したのであれば、ボールと人の頭とを間違えたりしないだろうが、AIでは推測するのが難しかったようだ。

 では、五感の一つである視力を失った人がサッカーを観戦した場合、試合の様子を知るにはどんな方法が考えられるのだろうか。『見えないスポーツ図鑑』(伊藤 亜紗、渡邊 淳司、林 阿希子/晶文社)は、視覚障害者にスポーツの臨場感をどう伝えるか、3人の研究者が実践的に取り組んで悪戦苦闘した記録と成果の詰まった、とても新鮮な驚きに満ちた一冊だ。

研究の入り口はいつも失敗の連続

 目が見えない場合、スポーツ観戦の主流は、やはり言葉による実況中継だ。ラジオ放送はもちろん、テレビ放送でもさまざまな競技が音声によって解説されているし、一緒に試合を観戦する人に言葉で説明してもらうこともあるだろう。しかしこの方法は、どうしても後追いになってしまい、ほかの観戦者が盛り上がっているときに一体感を得られない。例えばサッカーでゴールが決まった瞬間など、結末だけを、しかも遅れて教えられても気持ちが入っていかないのは当然かもしれない。そこで、研究者たちは美術鑑賞で行われる「ソーシャル・ビュー」の手法を取り入れてみた。これは6名程度で作品の前に立ち、対話しながら作品の解釈を作り上げていく方法なのだが、卓球と空手の試合の映像を見ながら試してみるも、結果は惨敗。卓球はラリーのスピードが速すぎて言葉が追いつかず、空手もまた動作を説明しづらくイメージを膨らませることができなかった。

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「スポーツを翻訳する」とは何か?

 次に彼らが手にした手法は、「手ぬぐい」を使うことだった。目の見えないランナーが走るさいに、目の見える伴走者が輪にしたロープの両側をそれぞれ持って走るというのを知って実際に体験してみたところ、相手が進もうとしている方向や、疲れや緊張までもが体に伝わり、その「情報伝達力」に驚いたそう。これを受けて彼らは、100円ショップでストッキングやフラフープ、スポンジなどの日用品を買い集めると、各スポーツの経験者を講師として招き、どの道具をどのように使えば目の見えない人が「臨場感」を得られるのかを検証するという研究の入り口に辿り着く。

 渡邊淳司氏はこの鑑賞法を、「ジェネラティブ・ビューイング」と命名した。「ジェネラティブ」とは「その場で生まれていく(生成的)」を意味し、それは目の見えない人に「伝達」するのではなく、「フィールドのなかに入って観戦する」という、一種の「バーチャルリアリティ」を提供するのである。実際に彼らは、本書における研究成果の一部を論文にまとめて「日本バーチャルリアリティ学会」の論文誌に投稿し、無事に採用されたそうだ。

 また本書では、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの言葉を引用し、「詩を翻訳することは、詩人がしたことをなぞるように自ら詩を作ることに等しい」と述べていた。いわば、スポーツを観戦して言葉で伝えるという直訳に対して、道具や体を使い「選手が感じている本質」を再現する意訳に挑むことでもある。

「観戦」が、「感戦」と「汗戦」になる

 先に触れた卓球の場合、観戦しているとラリーに注目しがちだが、実際には「全力疾走しながらポーカーをしている競技」だという。選手は球がラケットに当たった音で球の回転の仕方を聞き分け、その一球一球の振動を手のひらで感じ、相手の出方を予想し作戦を瞬時に立てながら、それを相手に悟らせないようにして戦っているからだ。

 その状況を再現するために使われた道具は、木製の鍋蓋とスリッパ。鍋蓋は持ち手が不安定なため、縁をスリッパで打ち鳴らすと球の回転や強弱を感じられたという。つまり、目の見える人が試合の状況を観戦しながら道具で伝えれば、「選手が感じていること」を感覚を通して体験する「感戦」となる。

 一方、柔道は相手の体勢を「崩す」のがポイントなことから、あらかじめ「崩したい方向」と「崩されてはいけない方向」を決めておいて、フラフープを二人で持ちながら片足で立ち、押したり引いたりする。こうした柔道や空手などの競技では、翻訳しているうちに「何だか、勝ちたくなってしまう」という不思議な感覚を抱いたそうだ。いつの間にか「観戦」が、「汗戦」となって自分たちが競技しているような錯覚に取りつかれたらしい。そして団体競技のサッカーともなれば、さらに複雑系へと近づいていき、まるで新しい競技が生まれる現場に立ち会ったかのようだった。

 全部で10個のスポーツを取り上げている本書で研究者たちは、これらの翻訳の仕方は一つの方法であって絶対ではないとしている。また、本書の中ではこの「スポーツを翻訳する」研究が、各競技での言語化しにくい指導においても役に立つ可能性を示唆しており、この研究分野の発展が愉しみに思えた。

清水銀嶺