実はそんなにモンペを穿いていなかった? 戦争中の女性ファッション実像

社会

公開日:2021/1/16

非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ
『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』(飯田未希/中央公論新社)

 戦時中の女性たちといえば、モンペ姿。私たちが抱く一般的な戦中の女性ファッションだ。その理由はおそらく、教科書や戦争本の写真に載っているモンペ姿の女性たちが強く印象に残っているからだろう。ところが、『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』(飯田未希/中央公論新社)によると、実際には「モンペは嫌われていた」とあるから驚いた。本書から戦時下の女性の実像を追ってみよう。

 その前に、簡単に時代背景を。年表的には、1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争が始まり、1945年に終戦というあたり。男性が兵役に取られ国内産業の担い手が減ったために、女性が部分的ながら社会に進出し、戦争協力を強いられた頃だ。いわゆる「鬼畜米英、贅沢は敵」。30年代はまだゆるやかなペースとはいえ、段々と生活への締め付けが厳しくなっていき、国防目的の婦人会ができて、主婦は千人針やら防火訓練やらを強要され、贅沢やお洒落なんてもってのほか、という時代だ。だが、本書によると、女性たちは国防だろうが非常時だろうが、美しくあることをぎりぎりまで捨てなかったというのだ。

 まず1930年代を見てみよう。本書が集めた新聞記事や証言によると、国から推奨された日本国女子にふさわしい日本髪や和服は、活動性に難ありのためか、従う者がほぼ皆無だったとのこと。また、この頃、文化・ドレメといった洋裁学校が大流行で、多くの未婚女性が入学し、臨時校舎を建てるほどだったという。既製の洋服が高級だったので、動きやすく実用的で、流行を取り入れた、気分の上がる服を着るには自分で作るしかないという理由に加え、後に家庭を持ったときに子どもの服を作る必要もあったという背景がある。ちなみに、男性のスーツは専門店で作るので、こちらの技術は必要とされなかった。

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 また、女性が従事した職業の車掌・工場員などは制服が洋服だったので、たとえ和服で育ったとしても、上からのお仕着せという形で洋服に馴染むことになる。そして当然ながら、洋服を着たからには、髪も日本髪というわけにはいかない。当時の女性たちの写真を見ると、肩にかかるかかからないかの長さまで短くし、ボリュームを出すようなパーマをかけている人が多い。この頃、パーマが大流行したのだ。国は敵国ヘアだとか、電気の無駄などの理由で、やめさせたかったのだが。

 40年代になっても状況は変わらず、37年にパーマが禁止されたにもかかわらず、女性のパーマ姿は圧倒的多数に。特に、洋裁学校に通う流行に敏感な女性たちのパーマ率はほぼ100%。ただし、主婦が婦人会に行くときは、和服に真っ白な割烹着を着て、髪は後ろにまとめるという姿だったが、この和服姿については嫌々やっていたわけではない。なぜなら白い割烹着が、元は上流階級しか手にできないものだったため、いわば晴れの装いという認識だったからだ。

 では、モンペはどこで登場するかというと、1938年のメディアでモンペを着た女性が防空演習する様子が、「これぞお手本」とばかりに報道されたあたりと思われる。しかし、実際に着用されたのは、学校の制服として指定された場合を除けば太平洋戦争の末期のみ。モンペはダサいから着たくないというのが、一般的な心境だったのだろう。

 当時の報道記録から女性の格好といえばモンペだと思っていたが、これは一種の教育的プロパガンダで、実際はちっとも敵国風なお洒落をやめないからこそのものだったようだ。戦争末期、モンペ強要が強くなった43年の写真には、モンペというよりズボン(?)を穿いている女性の姿が写る。腰からの膨らみを小さくしたスマートなデザインだ。また、終戦直前、防空壕の中にパーマ機を持ち込んで、客の要望に応えていたという美容師の証言も残る。一度知ってしまったお洒落を、そう簡単にやめることはできない。本書は女性を調査対象としているが、男性もその気持ちは同じだったのではないだろうか。戦時下という非常時でも、服装で自己の自由にこだわる心意気がたくましい。

文=奥みんす