暴走する特高と治安維持法。その犠牲になりながらも信念を貫く男たちを描く

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/29

アンブレイカブル
『アンブレイカブル』(柳広司/KADOKAWA)

「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ、又ハ情ヲ知リテ之(これ)ニ加入シタル者ハ、十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」

 1925年に制定された悪名高き治安維持法第1条の条文だ。この共産主義運動の抑え込みを目的としていたはずの法は、やがて国家の意に沿わない人間を取り締まるために使われるようになり、1945年に廃止されるまで数十万人がいわれなき罪によって逮捕、そのうちの1000人以上が拷問、衰弱、傷病によって命を落としたとされている。

 累計130万部突破の人気シリーズ「ジョーカー・ゲーム」シリーズで知られる柳広司氏の新作『アンブレイカブル』(KADOKAWA)は、この治安維持法の犠牲となり、歴史の闇に葬られた人々を描く連作集だ。

 第1話「雲雀」では労働者の視点からプロレタリア文学の旗手、小林多喜二が描かれる。銀行員として働きながら小説を書く多喜二は、“地獄”と呼ばれる蟹工船の実態について調べていた。しかし、その取材を受けるふたりの労働者は、特別高等警察(通称“特高”)を管轄する内務省の“クロサキ”という男から多喜二を陥れるよう事前に依頼されていて――。悲劇の作家として語られることの多い小林多喜二の知られざる一面、その文学の功績、反響にも光が当てられる1編だ。

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 続く第2話「叛徒」は、川柳作家・鶴彬をめぐり、丸山という憲兵大尉とクロサキの間で繰り広げられる緊迫感のある会話劇。「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」など、反戦的な川柳を積極的に発表していた鶴彬。丸山はある理由から、そんな鶴の行方を探っていたのだが、彼は特高にも目をつけられていた。憲兵と特高の駆け引きから、社会の矛盾を切り取る川柳の民衆芸術としての意義、検閲と密告と相互監視による言論弾圧へ突き進む社会情勢を浮かび上がらせる。

 第3話「虐殺」のモチーフになっているのは、1本の論文をきっかけに治安維持法違反で雑誌編集者や新聞記者など約60人が逮捕され、4人が獄死した「横浜事件」だ。“政治経済研究会”会員の志木が、同じ会員の中央公論社の編集者・和田から暗号文で呼び出される。和田は「自分のまわりから次々と人が消えていく」と怯えていた。相次ぐ謎の失踪の背後に見え隠れするのは神奈川県特高。いったい何が起きているのか。その謎を解くために必要なものは、“論理ならざる論理”だった。合理的で科学的な知見ではなく、希望的観測や精神論、反知性主義的なデタラメがまかり通る世の中で、“真実”ではなく“狂った算術”によって事件を捏造する特高の暴走をミステリー的手法で描く。

 最終話「矜恃」では、内務省のクロサキの視点から特高と治安維持法の歩み、そして稀代の哲学者・三木清の半生が語られていく。西田哲学の後継者といわれ、ハイデガーに師事し、多岐にわたる論考を発表して華々しく活躍していた三木。そんな彼はなぜ投獄されたのか。そして自尊心を打ち砕こうとしてくるクロサキに対して三木が語った“矜持”とは――。

 治安維持法によって弾圧された人々を第三者の視点から描いた4編は、小気味のよいどんでん返しがあったり、スリリングなスパイ・ミステリだったり、それぞれタッチの異なるエンターテインメントとして仕上げられている。しかし、ここに描かれた人物たちの“その後”を考えると、あまりに理不尽で残酷な歴史的事実に戦慄せざるを得ない。多くのディストピアは近未来を舞台に描かれるが、本作に描かれる暗黒の社会はかつての日本にあった現実だ。そして、本作で描かれる不条理な弾圧を生み出すことになった、凡庸で無自覚な悪意、肥大化して暴走を止められないシステム、市民の相互監視といった諸要素は、この令和の現代社会にも暗い影を落とし始めているといえるだろう。

 弾圧によって無残に死んでいった無辜の者たちを描いた作品のタイトルが、なぜ“アンブレイカブル”=“敗れざる者たち”なのか。本作を読めば、その意味がきっと腑に落ちる。苦難の時代において人はいかに生きるべきか、彼らの生き方と信念がそれを教えてくれる。

文=橋富政彦

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