80年代前半、ヤクザと過激派の間に起きた抗争。2名の死者を出した闘争の裏には、隠された利権争いが……

社会

公開日:2021/2/15

※書籍に掲載された表現を尊重し、当該記事ではそのまま使用しております。

ヤクザと過激派が棲む街
『ヤクザと過激派が棲む街』(牧村康正/講談社)

 読書好きの皆様は山谷(さんや)地区についてどのような知識をお持ちだろうか。山谷はかつて1万人近い日雇い労働者が集まり、簡易宿泊所が密集していた台東区の一角。一般的に「ドヤ街」と呼ばれる。「ドヤ」は宿の逆さ読みで、粗末な宿という皮肉が込められている。80年代前半、その山谷で、ヤクザと過激派労働組合が真正面から対立したことがあった。両者は暴力を剥き出しにして闘争し、2名の死者が出たという。

 そんな対立の実相をつぶさに活写したのが『ヤクザと過激派が棲む街』(講談社)だ。フリー・ジャーナリストの牧村康正氏が当時を知る関係者から丹念に聞き取りを行い、闘争の実像をクリアに浮かび上がらせている。

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 本書に登場する「ヤクザ側」は、博徒の老舗組織として名高い日本国粋会金町(以下、金町)。「過激派側」は、時に暴力もふるう労働者組合の山谷争議団(以下、争議団)。元々、両者は緊張状態にあった。

 新左翼過激派なども参加した山谷争議団は、ヤクザ系列の悪質な建設業者を追及し、戦闘的な労働争議を敢行していた。一方、金町は違法賭博をできる場所を探し、山谷の日雇い労働市場への進出を画策。両団体に所属する者が道端で喧嘩をするなどしあって、一触即発の状態にあった。

 彼らの対立は徐々に深まってゆき、81年、ついにヤクザと過激派がその支配権をめぐって正面衝突。この戦いは「金町戦」あるいは「金町戦争」と呼ばれ、2人の死者を出すほど激しく、かつ長期にわたるものになった。

 金町戦が本格的な武力闘争となったのは81年のこと。最初の勝利は争議団がもぎとった。だが。山谷の日雇い労働者たちは複雑な心境だった。労働者は早朝から集まった先で、ヤクザの息がかかった手配師たちに仕事を手際よく紹介される。

 だが、労働により得た収入からマージンをヤクザが抜いているのは間違いない。しかし、その手配師がいなければ仕事が供給されることもなかったわけで、少ないが貴重な財源だったわけだ。

 また興味深いのは、争議団が左派活動家を主としながらも、様々な出自の人たちの集合体だったという事実。労働者やインテリ左翼からアナーキストまでを擁する争議団。彼らは徒党を組むことがなく、組織の拡大や継続を意識することもなかったという。つまり、一定の役割を終えたら消えてしまい、また必要になったら集まればいいというスタンスだ。緩やかな連帯を保っていた争議団は、金町にとってつかみどころがないが故に厄介な敵だったということかもしれない。

 ちなみに筆者が本書で初めて知ったのが、83年に米国大統領だったロナルド・レーガンが来日した際、警察が争議団らの暴動を警戒し、彼らの大量逮捕に踏み切ったのではないかという説。レーガンの警備に人員を取られて、山谷で暴動が起きたらまずいというわけだ。

 他にも本書の終盤では、金町戦が、成田空港の建設に反対する三里塚闘争の蔭に隠れてしまった、という記述がある。マスメディアが飛びつくのは三里塚闘争のほうで、そのぶん金町戦に関する報道が減ったというのは頷ける。

 さらに筆者が連想したのは、気骨のジャーナリスト・竹中労の『ザ・ビートルズ・レポート』というルポルタージュ本である。同書では、66年のビートルズ来日による会場や宿泊施設等の警備を、70年安保へ向けた治安維持訓練の場とした、という説が記されている。

 どれも陰謀論と紙一重の説ではあるが、芸能人のスキャンダルの裏側で重要な法案がシレっと通っている今でも、ありそうな話ではないだろうか。

文=土佐有明